| 東京エレジー 2
最後のウインターカップを準々決勝敗退という結果で終え、部活を引退し、年が明けて、大学受験も終わった。ほとんど学校に行くこともなく、県内や近隣県に実家がある寮生は卒業式まで実家で待機する者も多かったが、県内出身である福井はなぜだか寮に留まった。 希望の大学に受かり東京行きが決まり、向こうでの住まいを探さなくてはならないのだから帰って来ればいいじゃないという母親の電話やメールには、部活に顔出してるから無理、と返事をした。部活に顔を出しているのは事実だが、週に一度とか、その程度のものだ。本当は毎日でも様子を見に行きたいところだが、引退した自分たちがあまり頻繁に顔を出しては後輩もやり難いだろうと、前主将の岡村と話して決めた。 アパートにしろマンションにしろ、探すのも決めるのも親の助けが不可欠であるのに両親には悪いと思ったが、福井はもう少しだけ、ここにいたかった。
「福井」 「あ?」 廊下で不意に声を掛けられた。その声を聞いたのは、ひどく久しぶりのような気がした。ほとんど毎日顔を合わせていたはずの二人は、部活と学校という理由が無くなった今、一緒にいることが稀になっていた。部活があった頃は生活パターンもほぼ同じだったので食堂にも一緒に行ったりしたが、今はまったくの個人と個人だ。お互いにつるむ様なタイプではないので、飯に行こうとわざわざ誘うこともない。寧ろ最近は、近い別れを寂しいと思ってくれているのか、後輩の劉あたりの方が頻繁に誘いにやって来る。だから、この広い寮で彼の顔を見るのも2日ぶりであった。 「どした?」 「あ、いや、夕飯もう食ったんか?」 「ああ、今食ってきたとこ」 「ふ、風呂は?」 「まだだけど…お前これから?」 「そうじゃ」 「ふぅーん」 だから?と声には出さず、福井は岡村を見上げた。岡村は何かを言いたそうだが何故だか言い淀み、二人の間に暫しの沈黙が訪れる。 「何だよ、一緒に入ろう、ってか?」 「そういうわけじゃ、ないんじゃが……あ、いや、まぁ何だ、たまにはそれもええかと……」 「ハッキリしねーな。オレ、劉に動画見せてもらう約束してっから後にするわ」 「そ、そうかい」 「んじゃな」 「お、おう」 ひらひらと手を振り背を向けたが、背中に岡村の視線が注がれているのがわかる。心地悪さに、少し足早に廊下を進み、福井は慌ただしく自分の部屋に入り、鍵を掛けた。ベッドの上で充電されている携帯電話を手に取り開いて、手早くボタンを押し始める。 『あ、もしもし福井?まだ来ないか?早くしないと始まっちゃうヨ』 「ワリィ、劉……今日ちょっとキャンセルな」 『ン?どーしたか?今呼びに行こう思ったアルよ』 「あー、来なくていい、っつか、来んな」 『具合でも悪いか?おクスリ持ってくアルか?』 「いや、何つーか、母親と電話?…しなきゃなんだ」 『あ〜、そゆことネ、了解アル。ママさんに甘えるヨロシ』 「そ、そんなんじゃねーからな!!」 『照れなくていいアル〜、じゃ、おやすみアル〜』 「っオイ!!!」 一方的に切られた携帯電話を眺め、福井はふぅと息を吐いた。 「何なんだよ、くそっ……」 あの男の裸など、この3年弱、寮の風呂で見飽きるほど見てきたというのに。 実際にはそれ以上何も起こらなかったし、お互いに起こそうとする素振りさえなかった。ひたすらにバスケに打ち込み、その後は受験に打ち込んできた。それらがなくなった今、日に日に大きくなっていくこの想いを抑え込むことに必死だ。
(岡…村……っ)
目を閉じた脳内で、自身の手が岡村の手に摩り替わる。 「ハ、ァ……ッ」 イイに決まってんだろ、と心の中で答え、福井は今日も、岡村よりもずっと小さな手の中に射精した。
その日は、呆気なくやって来た。 「福井」 「あ?」 いつもと、何も変わらない。 「準備できたんか」 「おう、いったん実家帰って来週東京行くわ」 「そうか」 「ああ」 「…………」 あの日から、もう何度この沈黙を味わっただろうか。 「のう、福井」 「ん?」 「ワシは……な、お前が、その……」 「うん?」 「お前が……ふ、副主将で、本当に良かったと思っとる」 それもおそらく本心で、その言葉は素直に嬉しいと思う。 「オレも、お前が主将で良かったよ」 あんがとな、と少し照れながら言って見上げると、岡村は潤んだ瞳で福井を見下ろしてきた。 「は!?おまっ……泣くとかやめろよな!ゴリラのくせに」 「ひどっ!最後までワシゃあゴリラ扱いなんか?」 「だってそうだろ?ってか今生の別れじゃあるまいし、同じ東京行くんだろーが」 「ああ……ああ、そうじゃ。そうじゃったのう」 福井がニッと笑って岡村の胸をグーで叩けば、岡村も負けじと福井の背中をバシバシと強く叩く。「…ってぇな!」と不満を洩らすそれは、どこにでもある、男同士の友情でしかない。
「福井〜〜」 「福井さん!」 聞き慣れた後輩たちの声に、二人は振り向いた。劉と氷室、そして驚いたことに、紫原の姿もあった。 「何だお前ら」 「何だとはひどいアル。見送りに来てやったアル」 「昨日送別会やってくれたじゃん」 「ええ、でも、せめて玄関…いえ、バス停まで見送らせてください」 「福ちん、はいコレ餞別〜〜」 紫原が差し出した駄菓子を目にした福井がプッと吹き出す。 「餞別がまいう棒1本かよ!」 「え〜?文句あんなら返して〜」 「しかも返せかよ!!!」 輪の中にドッと笑いが響いた。 それでも。 皆に見送られ寮を後にしても、福井の中では、背中に響いた岡村の手の感触だけが、いつまでも残っていた。
7.5帖のワンルームマンション。リビングにはベッドと、黒いローボードの上にブルーレイ内臓テレビ。服はそう大きくないクローゼットにすべて収まっているが、私服で学校に通うようになった今は、ファッションにも少し興味が湧いてきている。 キッチンは、廊下沿いに設けられた狭いシンクとふた口ガスコンロとその下の収納棚。冷蔵庫は、冷凍庫が大きめのものにして正解だったと思う。冷蔵庫の上に置かれた電子レンジは、今の生活に必要不可欠だ。 ほとんど自炊をすることがないので調理器具は必要最低限しか揃えていない。自分で料理しようかなって思ってから買い足しなさい、と言った故郷の母親は、実に堅実な主婦だなと思う。インスタント食品とコンビニ弁当ばかり食べて暮らす息子の食生活が心配ではないのか?という疑問も当初は抱いたがそういうわけではないようで、ときどきクール宅急便で実家の夕飯のおかずを冷凍にしたフリーザーパックが10袋前後と、それに合わせた数だけの冷凍された白米が送られて来る。中学を出てから寮住まいだった自分が自炊などしないのはとうに見抜かれていたし、母親自身も、あの頃から年に何度も口にすることのない手料理を食べさせたいと思っているのかもしれない。それはそれで有り難かったが、実際には、インスタント食品に勝るラクな食事などなかった。 今欲しいものは、瞬間で湯が沸く電気ケトルとパソコンだ。パソコンは今のところ無くても不自由さは感じていないが、レポート提出の時期になると大学のパソコン室が常に満席になるので、持っていて損はないらしい。 「もしもし」 『福井か?ワシじゃ』 「おう、何時頃来れそう?」 『練習が6時までになってのう。片付けもせんといかんし、そっち着くんは8時頃になりそうなんじゃが…』 「いいぜ、べつに」 『すまんのう。何ならもっと早く行ける日に変更しても―――』 「したらいつになるかわかんねーだろ?もう2回も予定延ばしてんだからよ。早く来たからって何するわけでもねーし、今日来いよ、今日」 『そ、そうか?ほんじゃあ、また連絡するわい』 「何時の電車で来るのかメールしろよ」 『了解じゃ』
用件のみで通話は切れた。 大学生になった今も、福井と岡村は極たまに連絡を取り合っている。同じ高校の同級生として。共に全国一を目指したバスケ部の元チームメイトとして。 スポーツ推薦で大学に進学した岡村は、大学の運動部寮で生活をしている。高校時代から続く、寮生活だ。大学に入学して初めて岡村から電話が掛かってきたとき、少々一人暮らしの話になって、そうしたら岡村は「今度泊まりに行ってもええか」と尋ねてきた。福井の心臓は思わず跳ねたが、平静を装って、「いつでも来いよ」と答えた。その電話で最初の約束をしたのだが、ついこの間まで最上級生だった自分たちは大学に入学した今、新入生である。特に、正式なバスケットボール部に入部した岡村は、高校時代に勝るとも劣らない厳しい上下関係の中に身を置いている。この日なら…と決めた予定はあっさりと潰れ、今回が3度目の正直であった。 (早く来たからって何するわけでもねーし) 自身の科白が心の奥を弄る。結局何も起こらなかったし、起こさなかった。これからもそれでいい、共に汗を流した青春時代の友でいい、と、もう何度も思ってきた。いや、思おうとしてきた。 それなのに、どうしても捨てきれない想いがある。だってあいつも、岡村もオレに対して何らかの感情を抱いていることを知っている。自意識過剰なんかじゃない。あいつもオレに、触りたいはずなんだ―――。
高校3年の夏休み前だった。インターハイ出場がすでに決まっており、主将の岡村と副主将の福井は、岡村の部屋で小さなテーブルに向かい、インターハイ前の練習日程について話し合っていた。夕食を済ませ、風呂にも入った。いつでも寝られる状態の中、練習の疲れも相俟って、福井は欠伸をひとつ洩らした。「眠いんか?」と尋ねる岡村に「このまま寝ちまいてぇ」と答え、福井はフローリングの床にごろりと横になった。今日中に決めなければならない事案ではない。岡村は「寝るなら自分の部屋に戻らんか」と言ったが横になったが最後、体を起こすことさえ億劫になった。岡村のため息が聞こえたがそれ以上何かを言うこともなく、カチカチというボールペンのノック音が室内に響く。開いた窓から吹き込んだ風に揺れるカーテンとカーテンレールの音は耳に心地よく、福井はうとうとと瞳を閉じた。7月とはいえ秋田の夜風はひんやりと肌を冷やす。立ち上がった岡村は窓を閉め、それから福井の体にやさしく何かを掛けた。タオルケットか何かだろう。「10時には起こすからの」という声を聞き、福井は安心したように、眠りへと落ちて行った。 どれくらい経ったのだろう。背後で名を呼ぶ声が聞こえるような気がしたが不確かで、はっきりと聞こえるのは、少し大きな自分の寝息だった。どうやら半分だけ覚醒した状態で、半分はまだ眠りの中らしい。「福井―――」と今度は確かに聞こえたがその声は何故だか囁くように小さく、いまだ自身の寝息の方が大きく脳内に響く。起こすならいっそ勢いよく起こしてくれなどと勝手なことを思っていると、横向きに寝ている背後に気配を感じた。岡村が様子を窺っているのだろう。夢うつつな心地の中、徐に、福井の唇に何かが触れた。一気に脳が、跳ね起きた。岡村は後ろにいるのだから、キスされたわけじゃない。薄っすらと目を開けてみると、それは、岡村の指先だった。指を一本そっと唇に押し付けて、ゆっくりと撫でながら離れていった。福井の頭は混乱した。急激に体の奥が疼き出した。 答えは、前者だった。薄々感じていたその答えがはっきりしたのは、二人で東京に来て格安のビジネスホテルに泊まったあの日だった。けれど、済し崩し的に何かが起こってもいいと行動を起こしてみたあの日も、結局何も起こらなかった。今夜もきっと、何も起こらないだろう。唐変木とか、朴念仁といった罵りの言葉がぼんやりと浮かび、それを岡村にぶつけてやりたいと思った。
「ったく、どうしたいんだよ……」
思わず呟いた独り言は、岡村だけでなく、福井自身にも向けられた言葉だった。
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