お題 「合宿」





「ねぇ、室ちん」

「な、に?」

「去年も思ったんだけど、さぁ、この合宿ってなんか、イミあんの?」

5キロ走を終え、両膝に手をついてハァ、ハァ、という切れ切れの息を吐きながら、紫原は氷室に尋ねた。

「あるに、決まって、るだろう?今のこのランニングだって決して、無意味にはなら、ない…ぞ」

「そーじゃなく、って、さぁ」

顔を上げて、唾を飲む。一刻も早く水分補給をしたいところだが、たった数メートルのマネージャーの元が今はやたらと遠く感じる。ちらと氷室を見やると、額とこめかみと首筋に、流れては落ちる汗が光った。

「そうじゃないって、じゃあどういうことだ?」

いくらか呼吸を整えた氷室が、少し怪訝そうな顔をして見上げてきた。

練習に意味がないとは思っていない。ただ、疑問に思うのは――。

「ここで合宿やるイミがあんの?ってこと。これじゃいつもと何も変わんないじゃん〜」

「そんなことないぞ。オレは今からすごく楽しみだけどな」

「はぁ?何が?だってここ寮より近いしマジイミ分かんなくない?寮のご飯のが絶対ウマいし〜」

「じゃあアツシだけ寮に帰るかい?」

「や、べつに、ここでもいーけど…」

ふふ、と軽く笑った氷室を見下ろして、紫原は不満げに口を尖らせる。

いつもと何も変わらない。

5キロ走は、いつものコース・学校の外周。練習は、いつもの体育館・第1アリーナ。合宿所は学校の敷地内にあって、学校から徒歩15分の男子寮よりもずっと近い。

ほら、なんにも変わらない。



「まーたオマエは何かワガママ言ってるアルか?」

「…って…っ」

パシッと後頭部を叩かれて、振り向いた。「ってーな劉ちん」と、ひとつ年上で氷室と同級生の先輩をキッと睨み付けたが、睨んだ相手はまったく怯むことなくにやりと笑った。

「ワタシと一緒に日本に留学来た同胞なんかな――」

えーと何県の高校だったアルか、と少し考えてから、まぁイイや、と言って中国人留学生の劉は話を続ける。

「山の上の寺が合宿所で、体育館は徒歩1時間の山の下で、吐くほどのキツイ練習終わってからまた山の上まで登って帰らなきゃならないって涙ぐましいLINE送ってきたアルよ」

「うへぁ〜〜……」

「それはすごい。行き帰りだけでもかなりいい練習になるな」

「……室ちんてマゾなの?」

「え???」

「コイツはただのバスケ馬鹿アルよ」

ホレ、と言って、劉は氷室にスクイズボトルを押し付けた。「まだいっぱい残ってるから二人で飲むアル」と言い残し、劉はその場を去っていく。氷室の手元に、外気の暑さで汗をかいたスクイズボトルが残った。「先にもらうよ」と言って飲み口を持ち上げた氷室の手から、紫原は咄嗟にそれを奪い取った。

「…アツシ?」

「あ、えっと、オレ今、チョー喉乾いてるし!」

「え、ああ、ごめん、お先にどうぞ」

気付かなくてごめん、という顔をして微笑み、氷室は紫原にそれを譲った。
回し飲みなどいつでもしていることなのに。直前に劉が飲んだであろう飲み口に氷室が口を付けるのを何だか見たくないと思う。
どうしてそう思うのか、わかるような気がしたけれど、それがわかってしまうのが嫌だと、もうずっと前から思っていた。



**



去年の合宿と決定的に違うことが二つある。

一つ目は、2年生になった今年は、疲れ切った体で何十人分もの食事の支度と片付けをしなくてもいいということ。

二つ目は、合宿に氷室がいる、ということ。



夕飯のカレーはそれなりに美味しかった。食事の支度はしなくて良くなったが、今年は自分たち2年生と先輩である3年生の布団敷きという仕事が待っていた。部内でもっとも体が大きくて力もあるであろう紫原は、当たり前のように敷布団配布係になった。ハイ、ハイ、と次々にやって来る同級生に布団を配っていたが、やがて面倒になって「みんなもうそこにいてー」と言うと、足元の敷布団をまるで座布団のようにひゅんひゅんと投げ始めた。全身で上手くキャッチする者もいれば、勢いよく飛んできた布団を受け止めきれずにひっくり返る同級生もいた。3年生が風呂に入っていてその場にいないのを良いことに、みんなゲラゲラと笑っている。寮生もいれば、自宅通学者もいて、修学旅行はまだだったから、コイツらと行く修学旅行はこんな感じなのかなと思いながら、紫原も笑いながら布団を投げまくった。



あっという間に合宿初日の消灯時間はやってきて、辺りが静寂に包まれる。

公民館のホールくらいの広さの畳み敷きの部屋。およそキレイに敷かれているとはいえない布団の上に、数十人もの部員が疲れ果てた体を横たわらせて、寝息を立てている。寝返りを打った隣のヤツの腕が腹に直撃してびっくりして目が覚めて、紫原は大きなため息を吐いて、のっそりと体を起こした。少し離れた所で寝ているはずの氷室の布団をそうっと窺うと、そこに人の姿はなかった。トイレだろうか、という推測に紫原自身も催してしまい、ゆっくりと立ち上がる。薄暗闇の中、布団と布団の間をぬうように、誰だか見分けのつかない誰かを踏んづけてしまわないように、慎重に部屋の端まで辿り着き、静かに襖を開いた。

薄暗い廊下を歩いてトイレに向かい中に入ったが、氷室の姿はなかった。こんな夜中にどこへ行ったというのだろう。用を足して手を洗い、このまま戻るべきか否かと悩みながら辺りを見回すと、上り階段の先の扉が少しだけ開いているのが見えた。この先は、合宿所の屋上だ。電気が点いているのかそれとも月明かりか、暗い階段の踊り場に微かに光が射し込んでいる。もしも室ちんじゃなかったらちょっと怖いなと思いつつも、紫原は階段を上り始めた。


ドアの隙間から、氷室の後ろ姿が見えた。何をするでもなくじっと佇んているその様に、紫原の心が揺れる。こんな夜中に何をしにきたのか。眠れないのだろうか。バスケしか頭にないバスケ馬鹿の彼は、主将として何を想い、この合宿を過ごすのだろうか。そっとドアを開き、音を立てないように足を踏み出したところで自分が裸足であることに気付いたが、そんなことはどうでも良かった。

隙間から射し込んでいた光は、月の明かりだった。校舎の向こう側には広い道路が通っているが、そこからグラウンドを経た場所にあるこの合宿所の周囲には建物もなく、グラウンドを背にした前面には田んぼが広がっている。屋上には電灯もなく、人工的な灯りは何もないはずなのに、月の光が氷室の後ろ姿を照らす。

一般の男子高校生の中ではわりと背の高い、けれど紫原と比べたらずっと小さなその背中に、手を伸ばしたくなる。いつからかなんて覚えていない。その体を、この腕で包んでしまいたいともうずっと思っている。だけどそれをしてしまったら、自分とこの人を繋いでいる大切なものが壊れてしまいそうな気がして、それが怖くて手が伸ばせない。胸が苦しくて、叫び出したいような胸の奥の塊が表に出て来てしまわないようにぎゅっと閉じ込めて、ふっと肩を落として歩を進めたら、コンクリートを擦った素足がジャリ、と小さな音を立てた。

「…え?アツシ、か?」

振り向いた氷室の顔が、月明かりで浮かび上がる。まるで絵みたいに綺麗なその顔を目にすると、胸の奥の塊がじくじくと疼く。だけどこれは出しちゃいけない。Wエースというこの人との繋がりを壊しちゃいけないってわかっているから。

「何してんの室ちん〜、夜中だよ?」

「ああ、何だか眠れなくてさ」

「あんた朝弱いんだから、キャプテンが寝坊したらマズイっしょ〜」

「ホントだな」

氷室がふと笑う。その笑顔をもっと、もっと、見ていたいと思う。

「もう行くよ、ほら」

「ああ、そうだな」

紫原が氷室の背後に回りその背中を強く押すと、押された勢いで、氷室はドアに向かって歩き出した。



来年の合宿は、今年の合宿と決定的に違うことが二つある。

一つ目は、最上級生になって、食事の支度も片付けも、布団敷きもすることなく真っ先に風呂に入れること。

二つ目は、来年の合宿に、この綺麗な先輩がもういない、ということだ。



だからこの人がここにいる間、オレはWエースとしての役割を全うする。





 

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