お題 「夏の終わり」





カラカラ、と小さな音がした。
夜風に吹かれて揺れたカーテンレールの音だ。
ついこの間まではエアコンをつけないと寝られないくらいに暑かったというのに、ここ数日で気温がぐんと下がり、自然の夜風が心地よい。紫原はベッドに腰掛けながら「ふぁ……」と欠伸をひとつ洩らした。

「眠いのか?」

机に向かっている氷室が振り向いて尋ねる。「まだ平気〜」と答え、ゆっくりと立ち上がった紫原は、氷室の背後から机上のノートとテキストを覗き込んだ。ノートには、お世辞にも上手いとはいえない文字が右へ左へと罫線をはみ出しながら拙く縦書きに並んでいる。

「えーと、春はあけぼの。”やうやう”白くなりゆ――」

「”ようよう”白くなりゆく山際少し明かりて紫立ちたる雲の細くたなびきたる」

「すごいな、覚えてるのか?」

「こんなんソラで言えるし〜」

「空で!?どういうことだ?」

心底不思議そうな顔をしてから、氷室は天井を指差しながら上を見上げた。紫原は、「あー、」と声を洩らし、小さなため息を吐く。

「その空じゃなくて、暗記してるってこと。どっかで恥かかないように覚えといた方がいいよ?」

「そうか、わかった。アツシは本当に物知りだな」

「べつにフツーの日本語だしー。ねぇ大体さぁ、何で今頃これやってんの?春はあけぼのってオレ、中学んときにやったけど?」

「ああ、実はこれな、夏休みの宿題なんだ。オレ、日本に帰国したばかりだろう?だから留学生と同じ宿題だされてさ」

「あー、なるほど、基本中の基本だもんね……ってか室ちん?夏休みの宿題って、もうとっくに新学期始まってるけど!?」

なんで今頃やってんの、という少し呆れた表情で、紫原が氷室を見下ろす。氷室は何かをごまかす様に、ニコッと笑って見せた。この先輩は、笑えば何でも許されると思っているのだろうか。まさかそこまで浅はかではないだろうとは思いたい。「はぁ〜」と今度は大きなため息を吐いて、「笑いごとじゃないよ」と紫原はガクッと肩を落とす。

「明日提出だから大丈夫なんだ」

「全然大丈夫じゃねーし!ほんっと室ちんて何でもギリギリまでやらないよね、バスケ以外」

「間に合うんだからいいじゃないか。んーと、何だ?終わりよければすべてよし、だろ?」

「まだ終わってねーから言ってんの!!」

見上げている氷室の頭を大きな手で挟み、少し強引に机に顔を向かわせる。どうせ最後まで付き合わせるつもりなのは明白なのだから、だったらさっさと終わらせてしまいたい。”春”の訳をやはり何も見ずに言いながら氷室にノートに書かせ、「ほら次、早く」と、紫原は氷室を急かした。

「夏は夜――ってことは、まさに今だな」

「あー、うんそうだねだから早く、夏は夜が良い」

「ほらな?夏は夜がいいんだぞ」

「何でもいいよもう、は〜や〜く〜」

「何だよアツシはオモムキがないな。わかったよ、もう」

氷室は少し不満げに口を尖らせている。なんであんたがそんな顔すんの、文句言う権利なんかないじゃん、趣って今使う言葉じゃねーし、等々言いたいけれど、言ったら余計に時間がかかりそうだから言わない。氷室がちゃんと次の行動に移るのを黙って待つ。ちらと横目で見上げ、紫原と目が合うと、氷室は仕方なさそうに顔を元に戻してテキストに視線を落とした。

「月のころはさらなりやみもなほ」

「なお」

「なお、蛍?の多く飛び?ち?が、ひたる?」

「はぁ?」

「飛んでるホタルから血が出て浸る……のか?」

「……むしろすげーわ、その訳」

ぽかんと口を開けてから、紫原はクックと肩を震わせて笑い始めた。閉じた口を震わせるその顔はいかにも可笑しそうで、笑われていることは少しも面白いことはないが、日頃仏頂面でお菓子を手にしたときくらいしか笑顔を見せたことのない彼がこんな風に笑うのを見るのは初めてで、氷室の表情も思わず綻ぶ。気付いた紫原はハッとして緩んだ顔を引き締めて、眉間に皺を寄せた。

「あーもうマジでめんどいから早くして」

「ああ、悪いな付き合わせて。でも本当にアツシが国語が得意で助かったよ」

「べつに得意科目じゃねーし」

「Really!?」

いきなり本場の発音で驚かれて、むしろ紫原の方が驚いて、くるりと見上げて来たその顔を見下ろした。けれど2メートル8センチという大柄な自分のことをこんな風にじっと見つめてくる人はひどくめずらしかったから、何だか気恥ずかしくなって、少し泳いでしまった視線をゆっくりと外していく。返事をしなかったからか、それでも氷室の視線が追ってくるのが心地悪くて、紫原は一歩後退りをして着いたベッドにドサッと腰を下ろし、それからよいしょと足を上げて、氷室のベッドに寝転がった。

「だからさぁ、蛍の、多く、飛び、ち・が・い・た・る。訳はねぇ――」

何でこんな面倒なことをしているんだろう。
そう思うのだけれど何故だかこの人は放っておけない。いや違う、この人はオレを……オレはこの人に、惹き付けられている?
まさかね、と苦笑して、暗記している秋も冬も口頭で教えてやる。カラカラカラ、と鳴るカーテンレールの音が何だか耳に心地良い。庭からは、気の早い秋の虫の声がする。少しひんやりとした風と、やはり窓を開けているらしい隣りの部屋の笑い声がすぅっと窓から吹き込んできた。少し、瞼が重い。シーツの生地が何だか違う。体を横たえた氷室のベッドは、自分のベッドとは違う良い匂いがした。

「火桶の火も白くなってしまってぇ、何だか……良く、ない……」

「火桶の――何だかよくない……と」

終わった!のか?と言って氷室が振り返ると、そこに横たわる紫原の目は閉じられていた。
眠かったのだろう。確かにいつもなら、よく食べよく眠る紫原はもう寝ている時間だ。
氷室はテキストとノートを閉じて、椅子から立ち上がった。小さな寝息を立てる大きな体を見下ろして、そっと手を伸ばす。伸ばされた手は、躊躇うことなく紫原の髪をふわりと撫でた。

「Thank you…アツシ」

髪に触れられて、ふと自分が眠っていたことに気付いた、と思ったら、頬にやわらかな何かが触れた。すぐに離れたそれが氷室の唇であることに気付くのにそう時間はかからなかった。海の向こうの国のただのお礼の挨拶だろうかと思ってはみても、心臓がばくばくと鳴り出して、紫原は目を開けることができなかった。氷室の気配が傍から消える。と、ガラガラ、と窓の閉まる音がして、その後、カーテンを引く音もした。涼しい風も、虫の声も無くなって、今感じるのは、氷室が室内を歩く気配だけだ。

いち、にの、さん!!

紫原はガバっとベッドの上で起き上がった。
気付いた氷室が、穏やかに微笑む。

「気持ち良さそうに寝てたな。起こそうかどうしようか悩んでしまったよ」

「部屋、戻るし」

「ありがとうな。明日まいう棒をおごるよ」

「べつに、いいし」

「え?」

ベッドから足を下ろし、紫原はろくに氷室の顔を見ることなく逃げ出す様に部屋を後にした。
まだ少し、ドキドキしている。
廊下の窓から吹き入る冷たい風が、熱を帯びた頬を心地よく撫でて、通り過ぎて行った。







 

 

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