| ただいまおかえり
「お、今帰ったんか? おかえり」 寮の玄関で靴を脱いでいるときにそう声を掛けられて、オレはふと声の主を見上げる。 その声と口調から誰であるのか分かってはいたが、即座に返す言葉が出て来なくて、なぜだか呆けた風な顔でもう3年近くも見慣れたその厳つい風貌をただ見上げていた。
年末のウインターカップで敗北を喫してからおよそ2週間が経った。 バスケしかしていなかった3年弱、クラスは違っても部活があるので帰りはいつも一緒だったし、主将と副主将という役割をこいつと共に担ってからはさらに一緒にいることが多くなった。おかげで女子との接点なんかもがっくりと減ったりしたけれど、今年だけは、今年こそは、という思いが強かったのでそんなことは些細な不満でしかなかった。 それでもたまに女子がこっちを窺っていることに気付くと岡村は「お前さんに用じゃろ」と言って黙ってその場を離れて行って、その後にはお約束の女子からの告白があったりしたわけだけど、オレはそれを全部断った。全部と言ったって、3年になってから今までに3回くらいで、超絶美形な帰国子女のあの新主将に比べれば微々たるモンだろうけど。
2年生の頃はそれでも彼女がいたりしたのだけれど、全国を目指す寮生活の運動部男子が恋に恋する女子高生の要望になんて応えられるわけがない。実際問題として、学校では休み時間くらいしか会う時間がなく、部活が終わってから一緒に帰りたくても、学校から男子寮までは徒歩5分。一方の彼女の家は、バスと徒歩で30分。部活が終わる時間を考えれば、男として当然先に帰れと言うだろう。 ところがある日、部活が終わったら彼女が暗闇で待っていて「一緒に帰ろう?」と言われたときには、彼女の身に何かあったら…という怖れと同時にそこまで付き纏われることに対する薄ら寒さまで覚えて、敢えて彼女のためを思って怒ったら当たり前のように泣かれてしまい、ああもういいや、と思ったのだ。 告白されてOKした頃には、「バスケを優先してね」なんて言っていたけど、徐々に現実が見えて来たのだろう。その後気まずくなってメールの遣り取りさえ途絶えていたが、数日後、どうしても聞きたいことがあるから時間作ってというメールが来たので、昼休みに中庭、と返事を送った。 「私とバスケ、どっちが大事なの?」なんて分かりきったこと聞かれたら迷わず「バスケに決まってんだろ」って答えられたらないいのになんて酷いこと考えたりもしてたのに「私と岡村君どっちが好きなの?」と聞かれてズコーー、ってなって、女の考えることマジで意味わからん、もう彼女とかいらね、どうせキス止まりでそれ以上できねーんだし、と思ったのは、2年の秋頃だったろうか。どうやら彼女はバスケにではなく、見かける度に一緒にいる岡村に嫉妬していたらしい。何だかもう可笑しくて笑い出したら笑い事じゃないとまた泣かれて、結局その日別れたのだけれど、何と言って別れたのかすらもう、覚えていない。高校2年のオレにはバスケだけでいっぱいいっぱいで、バスケと何かを両立させることが出来なかった。バスケから離れた今、オレはずい分と酷い彼氏だったなと反省もするが、ついこの間までオレの中では、バスケが、バスケだけが群を抜いた存在だったのだ。
こんなこともあった。夏休み前のことだ。 「お前さんに用じゃろ」と岡村が退いた後、なぜだかその女子の目はあいつを追っていて、「何?」と尋ねたら彼女はもじもじと照れ臭そうにしながら「岡村君て彼女いるのかな?」と聞いてきた。 オレはまず、自分への告白だろうと構えていたことが恥ずかしくてカッと顔が熱くなったけど、彼女にとってオレは眼中にないらしくそれはそれで有り難かった。あのゴリラに彼女がいるはずもなく、やっと来たゴリラの春!!なんて心の中では思っていたのだけれど、なんて言ったのかハッキリは覚えてないけど、「あいつ今、好きな子いるから」みたいなことを勝手に答えてしまったのだ。その子は可愛いわけでも可愛くないわけでもなく、本当に普通の女子だった。1年のとき同じクラスだったが、特に目立つこともなく、ああでも行事の手伝いとかは文句も言わずやっていたな、という印象しかなくて、苗字は覚えているけど名は覚えていない、というか知らない。そんな彼女は今思えば岡村に似合っていたかもしれない。ただあの時は、インターハイの直前だったし、女に免疫のないあいつにいきなり彼女ができたりしたら舞い上がってバスケに支障が出るんじゃないかという不安が心の奥に渦巻いて、思わずあんなことを言ってしまったのだ。インターハイが終わったら岡村本人に言おうと思っていたのに、敗戦後すぐにまたバスケ漬けの日々がやって来て、すっかり忘れてしまっていた。あの子は今でも岡村のことを思っているだろうか。今からでも遅くはないだろうか。バスケから離れた今ならきっと―――。
「なんじゃ、ワシの顔に何か付いとるんか?」 訝しげに眉を歪めて岡村に見下ろされても、オレは返事をすることができなかった。 バスケと岡村と共に過ごした高校生活だった。いつでも一緒にいて、彼女よりもはるかに一緒にいて、出掛けるときも帰るときもほとんど一緒で、だからこの男の「おかえり」という言葉がひどく不自然に耳に届いて、あまりにも簡単な言葉が浮かぶのにかなりの時間を要した。 「いや、なんつーか・・・ただいま?」 オレのぎこちない返事に、岡村も今のオレたちの遣り取りの違和感に気付いたのかちょっと真顔になってから、その厳つい顔を緩めて照れ臭そうにもう一度、 「おかえり」 と言って、ヤツは微笑んだ。
おしまい |