氷室辰也のtkbの話





これは、とある年の、とある季節の秋田県の高校での物語である。



陽泉高校の体育館で、男子バスケットボール部の練習試合が行われることになった。対戦相手は、インターハイにこそ出ていなかったが隣県でベスト八に入った強豪校だ。

今日は二試合が予定されている。まずは一戦目、準レギュラーを主体に控え選手も試合に出させるチームを組んだ。

準レギュラーはスタメンを目指し、控え選手は試合に出場する機会を得て、ここからレギュラーに這い上がろうと、誰もが必死だ。そんな熱気に中てられて、チームのエースの一人である三年生の氷室辰也はミーティングが始まる直前まで「オレも出る」と言い張っていたが、最終的には監督の荒木雅子に却下され、渋々と諦めた。

試合前、一戦目に出場する部員たちが着替え終わったので、入れ替わりでレギュラー部員が部室に入った。練習試合の場合、出場する人数が多いのでユニフォームは着用せず、Tシャツの上にビブスを着ける。ビブスとはいえ、全国レベルの陽泉高校において他校との練習試合用のそれは背番号だけでなく、しっかりとYOSENの文字もプリントしてあるものだ。

「はいよ、氷室」

部員の一人が氷室に向けて放ったのは、ユニフォームと同じ背番号の付いたレギュラー専用のビブスだった。軽く礼を言って受け取ると、氷室は練習用のTシャツを脱ぎ、上半身裸のまま、バッグの中をごそごそと探り出した。

「あれー、忘れてきちゃったかな」

「何を、アル?」

氷室の隣で着替えていた同学年の中国人留学生・劉偉は、訝しげに氷室を見下ろした。

「うーん、確かに入れたはずなんだけど」

「オマエ、まさかこの前みたいに靴下片方だけとかじゃねーアルな?」

劉の眉間に皺が寄った。


数日前のことだ。部活前の着替え中、やけにバッグの中をごそごそと探る氷室にどうしたのかと尋ねると、靴下がないと言う。今朝は少し寝坊をしたけれど、部屋に干してあった靴下を洗濯ばさみから外してバッグに突っ込んできたので無いはずがないらしい。制服時に履いている靴下でも練習できないことはないのだが、やはりしっくりこないし、何より滑る可能性もあるので危険だ。そんな中、ようやく探り当てて引っ張り出したバスケ用ソックスはなぜか片方のみで、それは劉の大きなため息を誘った。もっとよく探せと言う声に頷き、さらにバッグを探ること数十秒。「あった!」と喜び勇んで、氷室は先に見つけたのと同じソックスを取り出し目前に掲げたのだが。

「氷室、それ……どっちも右アル」

「……え?」

よく見れば、それはまったく同じ物だった。
そう、まったくの、同じ。

くるぶしの上のスポーツメーカーのロゴはどちらも右側に入っているし、つま先の右側には、どちらにもR≠フ文字。

「しまった」と、氷室は額に手を当てて顔を歪めた。きっと部屋に吊り下げたままのピンチハンガーには、L≠フ文字が入った靴下が二つ、ぶら下がっていることだろう。両方右用だとしても履くことはできるが、ただ、どうしようもなく格好が悪い。

事態に気付いた同学年部員たちは、

「今日だけは女子のギャラリー多い方がいいなぁ」

とか、

「女は細部に渡るまでよく見てるぞ〜」

などと言って、女子人気の高い氷室を揶揄して笑った。

「何だよ、バスケが出来れば問題ないだろ? なぁ?」

同意を求められた劉は呆れた風に肩を竦め、

「五本指ソックスじゃなくてよかったアルな」

と、嘲笑を洩らした。



だから、もしかしたらまたその再現じゃないのかと不安を抱いたのだが、氷室は「違うよ」と言って苦笑しながら劉を見上げた。

「さすがに練習試合はオレもちゃんと準備万端整えてくるよ」

「じゃあ、何がないアル?」

「んー、絆創膏?」

「絆創膏? どうかしたか?」

「ああ、乳首がちょっとね」

「乳首?」

ざわ、と周囲が一瞬ざわめいた。部室内には二試合目に出場するスタメンと控えを含め十人ほどしかいなかったが、ほぼ全員が氷室に視線を向けている。そんな中、劉はバッグの前にしゃがみ込む氷室の腕を掴んで引き上げ目の前に立たせると、裸のその胸を交互にまじまじと見つめた。

余分な肉など一グラムもついていないであろう引き締まった胸筋。左右の胸の上にそれぞれ地肌よりも少し色の濃い乳輪があって、その円の中心に、ピンク色をした小さな突起がぽつんと色付いている。

「乳首がちょっとどうした? どうもなってないアルよ」

固唾を飲んで見守る周囲の緊張をよそに、劉は平然と言いながら、屈めていた背筋を伸ばした。一見したところ、氷室の乳首に何か問題があるとは思えない。

「今は何ともないけどさ、練習試合って二枚着るからすごく汗かくだろう? 一試合フルで出ると乳首がTシャツで擦れて充血することがあって、それが後々地味に痛いんだよ」

「敏感肌アルか? ワタシはフルで出ても何ともないケド」

「劉は試合中あんまり走らないからだろ」

トスン、と頭頂部にチョップが入って、氷室は「いて、」と思わず肩を竦めた。

「いま何気にワタシのことディスったダロ」

「ええっ? そういう意味で言ったんじゃないよ……」

とにかく、と、氷室はバッグの中からTシャツを取り出して、首と袖を通した。

「やっぱり忘れちゃったみたいだ。また痛くなったらイヤだけど仕方ないな」

「それならワタシ、イイ物持ってるアル」

「いいもの?」

今度は劉がしゃがんでバッグの中を探り始めた。整理されたポーチの中からすぐに取り出されたのは、チューブタイプのハンドクリームのような物だった。

「ホレ」

「何だいこれ……ワ、セ、リ、ン?」

「それを乳首に塗るアルよ」

蓋を開けて、少しだけ出そうと加減してチューブを押したがそれはまったく出て来なかった。もう少し強く押しても同様で、ハンドクリームくらいの滑らかさを想像していたのでもしや中で固まっているのではないかと一層強く押してみた。ようやく数ミリ頭を覗かせたそれ――ワセリン――は、クリーム状というよりも固形物のように見えた。

「劉はこれ、何に使ってるんだい?」

「ワタシはボールでしょっちゅう指先が荒れるから、その保護アル」

「いつも使ってたっけ?」

「ギットギトの油の塊だからバスケする前に塗ったらかえって滑るネ。塗るのはほとんど寝る前アル」

「ええ? そんなの乳首に塗って平気なのか?」

「陸上部の中長距離走ってるヤツらがレース前にいつも乳首に塗る言ってたアル。ニップレスもイイけど高いからそうそう買ってられない言ってたアル」

「なるほど」

そういうことなら、本当に効果があるのかもしれない。氷室は数ミリ押し出したそれを指先に取った。

「じゃあ、試しに塗ってみるよ」

Tシャツの裾から手を忍ばせる。

と、途端に「クッ……!!」と小さな声を洩らし、氷室は突然体を く ≠フ字に曲げた。

「ぅ……ぁ……ちょっ……ハ、アッハハハハ! これムリ! 絶対ムリだ!」

「何、やってるアルか?」

体を曲げたまま、何やら一人で身悶えている氷室を劉は冷ややかに見下ろす。

「や、だって、くすぐったいだろうこんなの! 陸上部よく平気だな!」

未だクックッと笑いを堪える氷室はおそらく、まだ片方の乳首の先端にしかワセリンを塗っていない。氷室の乳首が擦れて充血しようが何だろうが劉にとってはどうでも良かったが、何となく、ここで唐突に悪戯心が湧き出した。

「だったら氷室、ワタシが塗ってやるアルよ」

「へ?」

全校生徒及び教員や学校職員の誰からも美形であると称される氷室が、間の抜けた表情で、間の抜けた声を返す。それを見た劉は、ニヤリと笑んで、氷室のTシャツの裾を胸の上まで捲り上げた。

「オマエの乳首の安寧のためアル。じっと我慢の子アル」

「ちょ、っと待て。待ってくれ、劉! あっ……んっ」

たくし上げられたTシャツの下の乳首に劉の指先が触れると、氷室は先ほどまでとは明らかに違った声を洩らした。自身の声の危うさに気付いたのか、氷室は思い切り体を捩って劉から逃れようと試みる。が、

「アツシ!」

と叫ぶ劉の声が、部室の隅まで届いた。けれど聞こえていないようなので、もう一度叫ぶ。

「アツシ! こっち来るアル!」

「ん〜?」

とっくに着替えを終えて部室の片隅の長椅子に腰掛けていた二年生の紫原敦は、二度に渡る劉の声にようやく顔を向けた。一連の氷室の乳首問題には少しの興味もなかった様子で、好物のポテトチップスをパリポリと食していたらしい。だから、今の状況は少しも把握していないし、まったく興味もないのだけれど。

「手伝ったら限定まいう棒五十本進呈アルよ!」

「え、マジ? 何なに〜〜?」

紫原の重い腰は、劉のひと言でいとも簡単に上がった。

「氷室が逃げないように捕まえとくアル」

「なんかよくわかんないけど、オッケ〜」

「あっ、この……っ、アツシの裏切り者!」

「限定まいう棒五十本と室ちんを天秤にかけたらそりゃあ限定まいう棒に決まってるっしょ〜」

「オレの価値は五百円以下か!?」

一本十円のまいう棒五十本分の値段を暗算した氷室が不満を叫ぶ。

「五百円てことはねーアルよ。消費税忘れてるアル」

「大差ないだろ! って、うわっ、やめろよアツシ!!」

「あーもーうるせーアルよ氷室。アツシ、ここ持って捲っとくアル」

斯くして氷室は身長二百八センチの紫原に後ろから羽交い絞めにされた上、Tシャツの裾を胸の上まで捲り上げられて身動きが取れなくなった。「氷室のためアル」という劉の言葉は乳首の保護という点からすれば確かにそうなのかもしれないが、彼自身はどう見ても面白がっているとしか思えない。まったくどうして今日に限って絆創膏を忘れてきてしまったんだろう、などと悔いているうちにも、劉の指先が伸びてくる。氷室はぎゅっと目を閉じて、全身を強張らせた。

「うぁっ……」

劉の指先が乳首に触れた瞬間、氷室の体がびくんと揺れた。

「ちょっとの我慢アル〜」

「うっ……く、ぅ……あ、あぁっ、や……やめ……っ」

薄く目を開くと、ニヤニヤと笑う劉の顔が見えた。べつにいけないことをされているわけでもないのに、何だか友の顔を見るのが気恥ずかしくて、氷室は再び目を閉じる。

「んっ……ん、ぁ……ん……っ」

「よーく塗り込むアル」

「な、なぁ劉……これって、べつに塗り込む必要ないんじゃない、か? あっ、そんなっ、やぁ……っんん……ん!? んん!? ちょっ、と待て劉! 何撮ってるんだよ!!」

再び薄目を開けた氷室の目に映ったのは、劉の顔……ではなく、劉のスマートフォンだった。シャッター音は聞こえなかったので動画を撮っているようだ。

「ン? 何って、まいう棒五十本分の資金集めアル」

「ふざけるな!」

「え〜、劉ちんそんなもん女子一人に売ったら一瞬で学校中の女子に回っちゃうと思うよ〜?」

「そんな愚行は犯さねーヨ。男バス内で先着十人アル」

それはとても大事なことなので、もう一度。

「アー、学食の〜定食回数券十枚で〜、なんと! 男バス限定先着十名様アルよ〜!」

劉の声は白々しく、室内の全員に聞こえるように響いた。

「その値段、高いのか安いのかわかんねーし」

「ちゃんと考えられた価格設定アル」

いいか、と劉は声を潜め、紫原に耳打ちするように顔を近付ける。

「いくら陽泉高校の歩く十八禁・氷室辰也の痴態とはいえ、高校生に万≠ヘ出せない。ケド、食券十枚四千円くらいならどうにかなる」

「だったら人数制限とかしない方がよくないー?」

「そこはビジネスアルよ。一見ごくフツーのDKが、同じDKのいやらしい動画を買うなんて、絶対人には言えねーし躊躇うはずアル。でも先着十人言っとけば、これは早い方がいいかも……となって、躊躇いも薄れるアル」

「うわぁ、なんか悪徳商法みたい」

「人聞き悪い。営利主義言うアルよ」

「……っんなわけあるか!!」

身長二百八センチの紫原と二百三センチの劉の会話は一八三センチの氷室の頭上で密やかに交わされてはいたが、その声はすべて筒抜けだ。

「痴態じゃないし、いやらしくもない!! だいたい歩く十八禁って何だよ!! で、劉はそれ止めろ!」

「エェ〜、儲かったら氷室にも一部ギャラ払うのに、頭固い男アルなぁ」

「スマホ破壊するぞ」

「ハイハイ、わかったヨ。じゃあ、さっさと終わらせるアル」

劉はあっさりと、スマホが自分のバッグの中に入るよう無造作に放った。

「次は反対側に塗るアルよ」

「一瞬で終わらせろ」

「エラそうなのがムカつくが、まぁ、善処するアル」

先に塗った右の乳首と乳輪が、油分でギラギラと光っている。劉は再びチューブから少量のワセリンを指先に取り、左の乳首の先端にもそれを塗り付けた。

「ウッ……ァ、劉っ……やっぱり……ムリ……っ」

「我慢と言ったアル」

「ん、でも……っ、や……あ、あぁ……んっ」

「フッ……フフッ……フ……ッ」

鼻に抜けるような笑いを洩らしながら、劉は小さく肩を揺らし始めた。

「な、なん、だよ」

「氷室オマエ、乳首すげー勃ってるアル」

「!!」

「うわー、マジ〜?」

「ホラ、アツシも触ってみるアル」

「オイ何言って……」

「どれどれ〜?」

両手でTシャツの裾をたくし上げたまま、それでも紫原は大きな手の長い指先で、氷室の左右の突起の先端に同時に触れた。

「ひぁ……っ!」

ビクビクンッ、と氷室の体が今まで以上に大きく跳ねる。

「ホントだ〜。コリッコリに硬いね〜」

「こ、こらアツシ! アッ、ん……っ」

羽交い絞めにした背後から胸に手を回し、左右の指先で両乳首を弄る様は、そこに性的な目的がなくても十分に淫猥な光景だ。

「アツシ、もうそのままオマエが塗ってやるアル」

「ん、了解〜」

紫原の大きくて長い中指が、ツンと勃った氷室の二つの突起の先端をなぞる。一方、自身の役割を放棄した劉は、放ったはずのスマホを取り出して再び氷室に向けた。

「あぁっ、劉っ、もういい加減に、しろ……っ、アツシも……早く終わらせ、て、くれ……オレ、もう……ぁんっ……」

「ねぇ劉ちん〜、そろそろやめないとマジでヤバいかもよ?」

「どしてアル?」

「なんか前のめり多過ぎだし〜」

紫原の視線の先は、劉の背後に向けられていた。劉が振り返ると、そこには、何故だか腰を少し折って前屈みになった男バス部員たちが、どこか追い詰められた恨めしげな視線を向けていた。

「ナゼみんなヘンなカッコしてるアル? おじいちゃんになったアルか?」

「う〜ん、室ちんがエロい声出すからちんこ勃っちゃったんじゃない?」

「ハァ? まったく、耐性なさ過ぎアルな」

「おっ、お前らが異常なんだよ!! なんでそれで平気でいられんだよ!!」

部員のうちの一人が、もぞもぞと腰をくねらせながら、何事も起こっていない劉と紫原に対して指を差す。

「なんでってー、それは氷室がワタシにとって大切な金ヅ……じゃなかった唯一無二の親友だから、アル」

「これ以上ないくらいウソ臭いし、金って聞こえたぞ、劉!!」

「ってゆーか室ちんって、ただのめんどくさい先輩じゃん〜?」

「だからオレはまいう棒五十本に負けたのか!?」

氷室はようやく紫原の手から逃れて、たくし上げられていたシャツの裾を両手で引き下げた。

その時。

バタン―――!!

と、部室のドアが勢いよく開け放たれた。

「おーい! そろそろ一戦目始まるぞ……って、え? なに? 何かあったのか?」

明らかに普段の様子とは何かが違う。呼びに来た男子マネージャーは、怪訝そうに眉を顰めて室内を見回した。

「何もないアル。ホレホレ、みんな順番におしっこ行って、試合観るアルよ〜」

「おしっこ? え? ? ?」

訳が分からずに訝るマネージャーの前をレギュラー及び準レギュラー陣が、みな同様に腰を屈めた姿勢で通り過ぎて行く。

「ワタシたちもすぐ行くアルよ」

「お、おう、早くな」

呼びに来たマネージャーは、やっぱり首を傾げながら、部室を後にした。

「さてワタシたちも行くネ。氷室、早くビブス着て―――」

「ちょっと待てよ、劉」

「ン?」

「動画、消せ」

劉が手にしたスマホを指差して、氷室は睨み付けるように見上げた。

「アイヤー、覚えてたアルか」

「いいから……さっさと消せっつってんだよ!!」

「イヤ〜ン、氷室クンてば怒ると怖〜〜い」

ガラの悪い氷室の口調に劉は甲高い声を上げてしなを作ったが、冗談抜きでスマホを破壊しかねない怒りの形相に、「しょーがねーアル」と言いながら、氷室にスマホの画面を向けて見せた。

「カメラと写真保存はこれネ。で、ココと、ココに入ってるから……削除……削除……っと、ハイ、これで完璧に消えたアル」

「本当に消したんだろうな?」

「今ちゃんと見てたダロ。でも、まぁ、オマエの乳首を守るためとはいえワタシもちょっとおふざけが過ぎたアル。すまなかったアル」

「や、事の発端はオレなんだし、消したならもういいよ。それより早く応援に行こう。で、もちろん試合には勝つぞ!」

「アア、とーぜんアル!」



先輩二人のたぶん熱き友情を、紫原は冷めた眼差しで眺めた。

紫原は知っている。

今どき写真や動画など、いくらでも自動的に他所に保存できる機能があるということを。

さらには氷室が、パソコンやスマホといった機器類に壊滅的に疎いということを。




その後、氷室のいやらしい動画が出回ったという噂は一切聞いてはいない。

ただ、ここしばらくの間、劉の財布の中には常に食券のぶ厚い束が入っていたとか、いなかったとか。





おしまい



 

 

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