ウインターカップが終わって部活を引退して、新しい年が明けて、高校生活最後の学期が始まった。大学受験を間近に控え、ここ陽泉高校の3年生は、週に1〜2日程度の登校日を除き自由登校する日が多くなった。 自宅通学者の中には塾に通っている者も多く、雪の多いこの地方で電車やバスを使ってわざわざ授業のない学校に行くよりは塾に行った方が有意義であるため、自宅通学者の姿は登校日以外に見かけることは少なくなっている。だが学校からほど近い寮に住まう寮生は塾に通うこともない。疑問や質問を直接教師に聞くことのできる学校は重要な受験勉強の場でもあるので、寮生は比較的高い割合で登校していた。 元男子バスケットボール部副主将の福井健介もそのうちの一人で、この日も自分と同じ文系学部を受験する友人との勉強を終えた後、同様に勉強を切り上げた数人と集まってくだらない話をして散々笑って、良い息抜きをした。廊下を通りかかった教師に「いつまでいるんだ早く帰れ」と注意を受けて時間を見れば、そろそろ寮の夕飯も始まる時間である。皆で驚いて慌ただしく教室を後にしたが、福井はふと思い出したように友人たちを振り返り、「用を思い出したから先に帰ってくれ」と言って彼らと別れ、一人で廊下を歩き始めた。 福井が向かったのは、体育館に隣接する運動部の部室棟であった。部を引退した今すでに用はないのだが、何だか片付ける気にならずに放置したままのロッカーにクラスメイトから借りたCDを返さずに入れっ放しだったので、せっかく思い出したついでに取りに行くことにしたのだ。部室の鍵を借りようと用務員室に立ち寄ったが男子バスケ部の部室の鍵はまだ返却されておらず、これはまた、バスケ馬鹿な新主将のあいつが自主練習でもしているのだろうと予測して、福井はそのまま部室棟へと向かった。
体育館の電気は消えているので、どの部もすでに練習を終えているようだ。部室棟を見ると、バレー部とバスケ部の部室にだけ明かりが点いていた。福井は久しぶりに、かつては毎日訪れていた部室のドアノブに手を掛けて、そっとドアを開いた。 「え? おい、どうした? 大丈夫か!?」 どこか体を痛めて苦しんでいるのではないだろうか。慌てて駆け寄り机の向こう側を覗き込んだ福井の目に映ったのは、思いもよらぬ光景であった。 それを見たことがないわけではなかった。なぜなら自分にも同じものが付いているからだ。自分のものだけでなく他人のものも、いや、ここに居るこいつのそれだって、寮の風呂や合宿先の風呂で目にしたことがあるはずなのだけれど。 「おま……っ、ざけんな、何こんなところで―――っ」 「すみません、福井さん……」 「そういうことは自分の部屋でやれよ」 「はい……でも、ガマンできな……くて……っ」 「っておいおいマジかよ……」 福井は思わず目を逸らせ、自分のロッカーに戻って中からCDを探り出した。バタン!とわざと大きな音を立てて扉を閉め、至って落ち着いた様子で入口のドアへと向かう。 「オナるのはお前の勝手だけど、せめて鍵くらい掛けとけよな」 「……はい」 消え入りそうな返事を耳にした福井は、振り返ることなくドアを閉め、早々に部室を後にした。
ビックリした。 ビックリした。 ビックリした―――!! 部室でうずくまっていたのは、中に入る前から福井が予測していたとおり、一学年後輩の新主将・氷室辰也であった。 何とか平静を保ったが、心臓はバクバクと大きく高鳴っている。 福井が目にしたのは、机の向こうで無造作に足を開いて座り、自慰をしているらしい氷室の姿だった。らしい、というのは、制服のズボンのファスナーの間から垣間見えた氷室の手に握られたものがまだ勃起していなかったからだ。福井が覗き込んだとき、一瞬だけ見上げて来た氷室と目が合った。どうしようもないんだと訴えるような、今にも泣き出しそうな顔だった。 福井とて、もちろん自慰をすることはある。周りの奴らだってきっとそうだ。たまたま場所が悪かっただけで、何も氷室がおかしいわけではない。そう思うことにして、福井は足早に体育館を離れ校舎へと戻った。
「お、福井じゃん。部室行ったん? 鍵持ってる?」 廊下で正面から歩いて来たのは、福井と同じく元男子バスケ部員の同級生だった。 「や、オレは……あ、何? 部室に何か用?」 「ロッカーん中に借りたマンガ入れっ放しでさ。今日返す約束してたの忘れてたんだよ。鍵借りに行ったら誰か持ってってるみたいだったから―――」 何だお前もオレと同じことしてんだな、と可笑しくなったのと同時に、笑い事じゃあない、という焦りが一気に湧き上がってきた。 「あ、やっべ、オレも忘れもん! お前のも取って来てやるよ、ロッカーに入ってるマンガな?1冊?」 「単行本2冊だけど……」 「了解! ちょっと待ってろ、な?」 「え? あ、ああ」 訝しげな視線を避けるようにして振り返り、福井は今来た廊下を走り始めた。氷室のマスかきは今どのあたりだろうか。中断させたら悪いなという気持ちと、またあの場に行かなくてはならないなんてふざけんなという気持ちが入り交じる。そういえばあの後あいつは鍵を閉めただろうか。そんなことを思っている間にも、部室の前に着いてしまった。福井は呼吸を整えるついでに一度大きなため息を吐き、果たして開いているか否か、半信半疑でドアノブに手を掛けた。 ドアはあっさりと開いた。さっき部屋に入った直後は気付かなかった氷室の黒髪が、ピクリと静止するのが分かった。福井は構うことなく同級生のロッカーに向かい、中を開けて2冊のマンガ本を手にして扉を閉める。 「鍵閉めろって言ったろ? オレじゃなかったらどうすんだよ」 「……すみません」という小さな声を聞き取るよりも早く、福井は氷室を無視して慌ただしく部室を出た。再び元の場所まで戻り、マンガを2冊、無事に手渡す。 「これだろ?」 「ああ、サンキュ。じゃあ帰ろうぜ」 そう言って歩き始めた彼に並ぶことなく、福井はその場に立ち止まった。 「オレ、さ……氷室残ってるからちょっと話あるんだわ。先帰っててくんね?」 「残ってんのやっぱ氷室か。ホント真面目だなアイツ」 「新主将ってのもあるしな。ちょうどいいからちょっとゲキ飛ばしてくるわ」 「おう、じゃあな」
元副主将の福井が新主将の氷室に個人的な話があったとしても、何ら不思議はない。まったく違和感を抱かせることなく二人はその場で別れ、福井は再々度、一人部室へと向かった。心なしかイラついているのは、氷室が人の忠告を聞かなかったからだ。三度目の正直である。福井は少しの遠慮もなしに、勢いよくドアを開けて中に入った。 「氷室お前なぁ、人の話聞けよ! ったく、おかげでオレが焦っちまったじゃねーか」 後輩のオナニーが中断しようが知ったことではない。ドアの前で不満げに文句を言ってみたが、返事はなかった。恐る恐る長机まで近付いてみると、氷室の口から洩れる短い吐息が聞こえてきた。他人がいてもお構いなしか? と半ば呆れて肩を竦め、勝手にしろ、と吐いてその場を離れようとしたとき―――。 「福井さん……」 はっきりと聞こえたのは、切なげな声だった。 「お願いです……福井さん……」 返事をするべきか、分からなかった。嫌な予感がする。答えを返したら最後、こいつのお願いとやらを聞いてやることにはならないだろうか。 「……何だよ」 つくづく悪い癖だ、と思う。人の声を無視することなど出来ない。まったく損な性分だなと、福井は己の性格を恨んだ。 |