| 同じ歩調 1 1/2 ガチャ、と部室のドアが開き、少し身を屈めて中に入って来たその人と、ほぼ真っ直ぐな高さで目が合った。 「今日の掃除当番アツシだったアルか」 「うん、そう〜」 部室の掃除は先輩・後輩に関係なく日替わりで回ってくる。床をモップ掛けしていた紫原敦は、声を掛けてきた一学年先輩の劉偉に間延びした声を返した。 「劉ちんはどこ行ってたの?もうみんな帰っちゃったよ?」 「新人戦のことで監督に呼ばれて話してたアル」 「室ちんは?」 「アイツ、文化祭の買い出しがあるって部活終わったらクラスのヤツとソッコーで消えたアル」 「買い出しって、イ/オ/ンかどっか?間に合うといいねぇ〜」 監督に呼ばれるときは主将の氷室と副主将の劉が大抵セットであることが多いのだが、劉の答えで合点がいった。ついでにこのド田舎から夜7時過ぎに買い物に行ったという氷室たちの健闘も祈っておいてやる。 「店は開いててもバスがないからな。どーすんだか」 「ロードワークとか言って走って行きそうじゃん?」 「プッ……氷室アルアルやめろアル」 「何それ劉ちんおもしれーし。てかマジあの人ならやりそうだよねぇ〜」 二人はアハハ、と声を上げて笑った。 主将の氷室はときどき紫原の甘えを許してしまうことがあるが、その穴を埋めるかのように劉は紫原に厳しかった。けれどそれは部活中だけの話であって、それ以外の時間にはこうして笑い合えるくらいには仲は良い。怒られたときには不貞腐れたり言い返したりして喧々囂々となり氷室や他の三年生が仲裁に入ることも多いのに、決して仲は悪くないのだ。そんなギャップめいた関係は、否応なしに同じ屋根の下で暮らしていたすぐ上の兄との関係と少し似ていて、そして紫原はそれが嫌いではなかった。
長テーブルを挟んだ向こう側で、劉は着替えを始めた。Tシャツを脱ぎ、部活後に拭いたはずなのに蒸し暑さでじんわりと浮かんだ汗をタオルで再び拭い去る。紫原はモップ掛けをする手を左右に動かして床を拭き、徐々に劉の方へと近付きながらその様を眺めた。 「劉ちんて細いね」 「……ハァ?」 背を向けている劉は手を止めて、首だけを振り向かせて頓狂な声を上げた。間違っても、身長203センチ・体重91キロの鍛えられた体を見て言う言葉ではないだろう。 「このガタイでそんなこと言われたの初めてアル」 「うん、まぁそうだろうけどそうじゃなくって〜、オレとか、あとー、岡ちんとかと比べて?」 喋りながらもモップ掛けは進み、劉との距離は1メートルほどになった。身長208センチの紫原は、すでに卒業してもうここにはいない身長200センチの先輩の名も引き合いに出して問うように小さく首を傾げたが、「それでも細くはねーヨ」と眉を顰め、劉はフイと向こうを向いてしまった。紫原はモップ掛けの手を止めて、自分と同じくらいの肌色の背中をじっと見つめた。背後で静止している気配を感じ取った劉は、その心地悪さに今度は体ごと振り向いた。 「何だヨ」 怪訝そうな表情でほんの少しだけ目線を上げれば目が合うという身長差。紫原は一歩だけ足を踏み出して劉の目前に立つと、両手で劉の両肩をがっしりと掴んだ。手を離したモップの柄がゆっくりと傾いていくのが劉の目に映る。やがてそれは、カラン、と音を立てて床へと倒れて落ちた。 「だから何だヨ?」 「え?あ、えーっと……」 何だっけ?オレ今なんで劉ちんの肩掴んでんの?と自問自答するほどに、無意識な行動だったらしい。紫原はハッとして、慌てて両手を離す。 「だからー、劉ちんは細いって話でしょ?」 「細くねー言ったアル。それともワタシ、筋肉足りないアルか?」 「違う違う、んーとね、岡ちんがドン!だったらオレはバン!で、劉ちんは……シュッ!って感じ?」 「…………」 ドン!で胸を拳で叩き、バン!で両手を広げ、シュッ!で広げた両手をギュッと狭めてそのまま素早く上に上げる。紫原の一連の動作は理解できないこともないが、劉はやっぱり眉を顰めて小さく肩を竦めた。 「擬音で説明とか、幼稚園児アルか」 「わかんないならもーいいし」 いくらか不貞腐れた態度で倒れたモップを拾い上げると、上げた頭にポンと何かが当たった。思わず「え?」という声が洩れて、紫原は体を起こしながら劉を見上げる。頭の天辺を覆うのは、劉の手のひらだった。 「早く掃除終わらせてモップ洗って来るアルよ」 「……なんで?」 「一緒に帰るダロ?」 「あ、うん……」 手を離した劉は、白いワイシャツに袖を通し始めた。
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一人で帰るということは滅多になかった。ただ、普段は同じ学年の奴らとだったり、仲の良い氷室とだったり、或いは氷室と、氷室と仲の良い劉と3人であったりで、個人の繋がりが然程強くない劉と二人で帰るのは、本当に初めてだった。けれど紫原にとってそれは少し意外な気もした。仲は悪くないひとつ年上の先輩。それ以上でも以下でもない存在。他人との関係などほとんど気にしたことがないのに、何だか胸の奥がむずむずと痒い。劉は昨夜テレビ放映されたアメリカのアクション映画の話をしている。その映画に関しては、かつてCMで流れていた内容程度の知識しかなく、紫原は適当に相槌を打ちながら劉と並んで歩いた。学校から離れるにしたがって灯りは乏しくなり、周りが暗くなっていく。拙い街灯の明かりの中を二人は肩を並べて歩いた。 二人で歩いていて、気付いたことがある。小さい頃から同い年の誰よりも背が高く、そのサイズは同学年の中で、常に規格外であった。あの頃から、つい昨日の部活の帰り道まで、紫原はいつでも無意識に相手に歩調を合わせて歩いてきた。 あれは小学校5年生くらいだったろうか。遠足の班行動で男女5〜6人のグループで歩いていたら、女の子の一人が突然泣き出した。班の皆でどうしたのと理由を聞き出してみれば、女の子はひどく言い難そうに「紫原君が歩くの早過ぎてついていけない」と言った。今となれば配慮が足りなかったと思えるが、当時はそんなこと考えもしない子供だ。他の男子も女子も、「私もちょっと疲れちゃった」とか「オレもついてくのやっとだったんだ」などと言い出して、気が付けば自分は『思いやりのない班員』になっていた。 オレはただ、歩いていただけなのに。 あのときは、腹が立って悔しくて、そして少しだけ悲しくて、怒鳴り散らしたい気持ちになったのだけれど、『女の子にはやさしくしなさい』という両親や兄姉からの教えが、幼い怒りを思いとどまらせた。 あの日からずっと、素知らぬ振りをしながらいつでも相手の歩調に合わせてきた。のんびり行こう、のんびりと。最初は焦れったかったけれど、その行動はいつの間にか、己の代名詞のようになっていた。 それが今、まったく気遣うことなく紫原は歩いている。長い脚を小さく踏み出さなくても、ゆっくり動かさなくても、隣を歩く劉も当たり前のように同じ歩調で歩いている。そんな些細なことが妙に嬉しくて、もっと早く歩きたくなったのだけれど、たった5分という時間をこれ以上短くしてしまうのが何だか勿体無くて、紫原は同じ歩調で歩き続けた。 「めずらしく菓子食ってねーアルな」 映画の論評をひと通り終えた劉が、今気付いたかのような口調で聞いてきた。 「掃除当番のときにお菓子食べると自分の仕事増やすだけだ、って劉ちんが言ったんじゃん〜、前に」 「言ったケド、今もう掃除してねーダロ」 「そーだけど……だって……」 掃除の前に全部食べちゃったんだもん、と少し口を尖らせた紫原を横目に、劉はクスと笑った。カバンのファスナーを開け、中に手を突っ込んで、劉はゴソゴソと何かを探る。ピタ、と手の動きが止まり、それからゆっくりとカバンの中から取り出したのは、ポッキーの箱だった。封はすでに開いていて、劉はその中から一本を取り出した。 「食うアルか?」 「やった〜!ちょーだい!」 劉はなぜだかにやりと笑い、箱の中からチョコレートの掛かったポッキーを一本取り出して紫原の顔の前に差し出した。 「……え?」 「ホレ、食うアルよ」 顔の前に差し出されたということは、そのまま口にしろということなのだろうがそれって高校生男子としてどうなんだろう?そんな疑問が頭を過ぎり、でも室ちんは平気でそういうことするから劉ちんも室ちんに感化されてるのかもしれない、なんてことを一瞬のうちに思考して、紫原は素直に口を開け、差し出されたポッキーを口にしようとした。 が、次の瞬間、ポッキーは顔の前からスッと消えた。何かが移動した先を見上げれば、劉は手にしたポッキーを紫原の頭上に掲げている。じと、と見やった劉の顔はニヤニヤとした悪い顔だ。これがやりたくてわざわざ自分で食べさせようとしたのかと思うとその幼稚さに半分呆れ、まんまと引っ掛かった自分の間抜けさにはちょっとだけ腹が立った。 「何なのもうっ、ムカちーーーん!」 「お?新しい呼び名アルか?」 「いーからよこせ!!」 208センチの自分の頭上に手を掲げるなんてこと、それこそこの人だからできるんだと思ったらさっきみたいに胸の奥がむず痒くなった。それを振り切ろうと、紫原はポッキーを持つ劉の手を強引に掴む。少し冷たい劉の手の肌の感触に、ああそうだこの手もオレだから届くんだと思ったらむず痒さが何だか体の下の方に降りてきて、心臓がばくばくと大きく鳴り出して、何だかもうわけがわからなくなって、掴んだ劉の手を顔の前に引っ張り下ろしてきてそのままポッキーに噛り付いた。 「オイオイ、ワタシの手まで食うなヨ?」 劉は悪戯が成功した所為か、引っ掛かった後輩を余裕の笑みで見守っている。一人でぐるぐる考えている自分と劉の先輩面が妙にイラつく。むしゃむしゃと食べ進み、いよいよチョコが無くなる部分まできたところで本当に指を食われるのではと劉は焦ったが、今ポッキーを摘まんだ指を離したら地面に落っこちてしまう可能性もあったので、離すに離せない。まさか指まで食われることはないだろうと、劉は紫原が最後のひと口の先端を口にするのを待った。 「オ、オイ……」 いっそ噛まれたなら勢い余ったのだろうと思うところだが、紫原は、劉の指先をやさしく口に含むのだ。呆然として数秒の間されるがままになっていたが、あらためて思えばこの状況はどう考えてもおかしい。劉は慌てて手を引いて、それから掴む紫原の手を振り解いた。 「何してるアルか」 「ムカついたから手まで食ってやろうかと思ったけど……マズそうだからやめた〜」 「あたりめーアル、食われてたまるか」 ひどくやわらかな唇の感触がいつまでも指先から離れない。じくじくと疼き始めた感覚を揉み消す様に、劉は制服のズボンの脇を摘まんで指先を拭う。頬が熱い。顔もきっと赤くなっているだろう。道の明かりが乏しいことに劉はそっと感謝した。 食べてしまえば良かった―――。 振り解かれた手を紫原は強く握り締めた。心臓は相変わらずばくばくと高鳴っている。少し息が苦しい。どうにかしたいこの体の昂りを抑える方法が、今はひとつしか思い浮かばない。 |