欲しいのはシャンプーじゃない 3





自室の机の上に教科書とノートを広げ、劉は頭を抱えていた。

今日の宿題は漢文だ。中国人なのだからお手の物だろうと思いきや、そう簡単にはいかなかった。日本の学校の授業では、劉にとってそのままならば難なく読める中国語の原文をわざわざ日本語読みの書き下し文にしてから意味を考える。しかも、レ点・一二点等の返り点を理解して漢字の順序を入れ替えなければならなかったし、何より、書き下し文にするために振ってある送り仮名が、カタカナなのだ。劉はカタカナが苦手だ。漢字と数字以外にひらがななんて文字が50もあるというのに、さらにカタカナとは何事だ?本当に必要なのか、甚だ疑問である。
けれどそんなときにとても役立つアイテムを劉は持っていた。もうずい分とボロボロになってしまったA4サイズの紙は、劉が留学生として陽泉高校に入学した1年生のときにクラスメイトが作ってくれたもので、ひらがなとカタカナの50音+濁音・半濁音がそれぞれ書いてある。
これは劉の宝物だ。どんなにボロボロになっても、日本を離れても、ずっと持ち続けていようと思っている。


『佳詠有らずんば、何ぞ雅懐を伸べんや。

もし詩成らずんば、罰は金谷の酒斗の数に依らん。』


「終わった・・・」

最後の一文を書き終えて、劉はホッと息を吐いた。
縮こまっていた体を伸ばそうと椅子から立ち上がると、床に置いてあった少年マンガ雑誌に足が当たった。先週、隣りの部屋の奴から回ってきたものだ。

日本のマンガは面白い。日本語を読むことは得意ではなかったが、マンガの漢字にはすべてふりがなが振ってあったので、ひらがなで読めば台詞の意味が理解ができたし、漢字を含めて読んでみると日本語の勉強にもなった。更には今どきの日本人の流行りの口調なども表現されている。だから、語尾に”アル”を付けているヤツなどいないことは、とっくに知っていた。
それでも劉は、今でも語尾に”アル”を付けている。それが日本で流行っていると劉に教えた先輩の福井は、つい先月高校を卒業し、この寮を出て行った。あれは嘘だよと、劉に告げることもなく。
それを機にやめることもできたのだが、なぜだか劉は語尾に”アル”口調を使い続けている。名残惜しくなったのかもしれない。それくらいには、人をからかうのが得意なあの先輩のことが好きだった。

劉は3冊ほど床に散らばったていたマンガ雑誌の中から1冊を拾い上げ、机の向かいにあるベッドに寝転がった。雑誌の表紙は、グラビアアイドルらしき美少女の笑顔のアップだ。表紙をめくると美少女の特集ページがある。少女・・といっても年齢はどうやら劉と変わらないらしいが、際どい水着姿の少女は幼い顔立ちに似合わぬ豊満なボディで、胸がビキニの水着からはみ出してしまいそうだ。隣りの部屋の奴が雑誌を持ってきたとき、「こうしたら乳首見えそうじゃね?」と本を横にして谷間を覗き込みながら、あり得もしないことを言っていた。「見えるわけないアル」と劉は笑ったが、日本に来た頃であったなら、きっと自分もそういうものに興味を抱いていたことだろう。

けれど今は違う。なぜなら欲望の対象となる乳首など、すでに数えきれないほど何度も見ているのだから。乳首どころではない。下半身も、一糸纏わぬその姿をもう何度も目にしてきた。ついさっきも、寮の風呂で目にしたばかりだ。

出会った頃は、同じ部で生活パターンも似ていたため、「風呂行く?」などと誘い合って入ったものだが、彼の体が欲望の対象になると気付いた頃から、劉はできるだけ彼と同じ時間を避けて風呂に入るようになった。けれど時には鉢合わせすることもある。今日は劉が他の寮生と風呂に入っているところに、彼もまた他の寮生と一緒にやってきた。「あれ?リュウ、ここで一緒になるの久しぶりだな」と言って、氷室は笑った。

劉はベッドに寝そべったまま、長い腕を伸ばしてマンガ雑誌を床に置き、掛け布団を胸のあたりまで引き上げて、瞳を閉じた。
目の奥に浮かぶのは、グラビアアイドルの水着の下でもなければ、クラスの女子の制服の中身でもない。一般の男子高校生としてはかなり長身な、けれど自分に比べれば20cmも小さい、細身の体。やわらかく豊満なおっぱいなど付いているはずもなく、そこにあるのは、鍛えられ余分な肉など露程もない、引き締まった胸。
あの胸の先端に触れたら、あの男はどんな顔をするのだろう。どんな声を漏らすのだろう。浴場で恥ずかしげもなくこの目に晒されたあの男のペニスは、何に興奮し、どうやって達するのだろう。それを知っているのは自分ではない。紫原だ。

劉は掛け布団の中に腕を潜らせ、さらに下着の中に手を入れた。脳裏では、紫原に胸を愛撫され、ペニスを扱かれる氷室が喘ぎ声を上げている。何度も「アツシ」と紫原の名を呼び、その巨体に跨り自ら腰を振る。
なぜ想像の中でさえ自分ではなく紫原であるのか、劉自身よく分からなかった。怖いのかもしれない。たとえ脳内であっても、この手で彼を侵し、自分の中の何かが弾けてしまうことが。告げることもできず、当然触れることもできない自分の最善の選択はきっと、今のこの距離を保ち続けることだ。共に汗を流し、より上を目指す部活の仲間として。笑い合ったり、たまに不機嫌になったり、ときには一緒に悩んだり、留学生と帰国子女という些かではあるが似た境遇の同級生として。
どう足掻いても、あと一年と経たないうちに卒業という別れがやって来る。氷室から、友情としての好意は得られていると自負している。何としても、今のこの関係を壊したくない。だからたとえ脳内であっても、この手で氷室を侵してはならない。

コンコン、と部屋のドアを叩く音がした。

劉はビクリとして、動かし始めたばかりの手を止めた。ドアノブに手を掛ける音がしたかと思うと、返事をする間もなくそっとドアが開き、「リュウ、いる?」という氷室の声がした。ドクン、と劉の心臓が大きくを脈を打つ。自慰などするつもりはなかったので、ドアに鍵をかけていなかった。しくった・・と呟きながら劉がのっそりと大きな体を起こすと、ドアの隙間からこちらを覗き込む氷室と目が合った。

「ごめん・・寝てた?」

「ああ、でも今起きた」

「起こしちゃったのか?ホントにごめん。電気点いてたから、いるかなーと思って・・」

ごめんと謝る割に、氷室はそのまま部屋に侵入してきた。彼らしいといえば、彼らしい。

「このまま寝落ちてたらヤバかったから、いいアルよ」

「ヒーター点けっぱなしで寝てたのか?危ないなぁ」

4月とはいえ、秋田の春はまだまだ遠い。氷室の視線の先では、扇風機型のハロゲンヒーターが首を振りながらオレンジ色の光を放っている。「ああ、そうだな」と答えながら、劉は眠たそうな振りをして頭を掻いた。

「で、何アル?」

劉は氷室に要件を尋ねた。

「漢文の宿題・・終わった?」

なるほど要件はすぐに分かった。

「だから氷室、何度も言ってるがワタシ漢文得意じゃない。教えられないアル」

「オレは漢字が苦手なんだよ」

「人の話聞いてるか?」

「明日読みで絶対当たるんだ!田中が国語得意だから聞きに行ったら”オレは当たらないからやらねー”とか言ってるし。で、真面目なリュウならやってるかなー、って・・・」

氷室が情けない顔をして、ベッドに起き上がった姿勢のままの劉を見つめる。劉は眉を顰め、負けじとその顔を見上げていたのだが、どんどん情けなくなっていく氷室の表情についには折れてしまった。

「そこに出来てる。写せばいいアル」

「ホントか?リュウ、Thank you!」

「ちゃんと考えながら写すアルよ」

「わかってるって」

「・・・・・・・」

どうせ丸写しだろう、と劉が肩を竦めた頃には、氷室はすでに劉の机に向かいノートを広げていた。劉は小さくため息を吐きながら、ベッドから足を下ろす。勃ち上がりかけていた下半身は、すでに治まっていた。





**




「劉ちーん、室ちんいる〜?」

ノックのひとつもせずにドアを開け、その男は大きく身を屈めて無遠慮に部屋に入ってきた。

「まったく、揃いも揃って不法侵入アルか?」

「オレはノックしただろ?」

「そういう問題じゃないアルよ、氷室」

「ダメだぞアツシ、ちゃんとノックしなきゃ」

「そんなことより室ちん、英語教えて」

「オマエら!少しは人の話を聞くアル!!!!」

ついには劉が声を荒げた。氷室はしまったという顔をして、腕を組み仁王立ちする劉を見上げる。不法侵入者扱いをされた紫原は、ちぇ、と口を尖らせて、劉のベッドにどっかと腰を下ろした。

「で、アツシは何しに来たアル?」

氷室が自室にいないとき、紫原はまず劉の部屋を訪れる。ひとつ年上の氷室が寮の同級生でいちばん仲が良いのはおそらく劉で、それがいちばん見つかる確立が高いからだ。それは劉にとってささやかな優越感であり、紫原にとってはほんの少しの悔しさがあった。何をどう頑張っても、学年の壁は越えられない。

「室ちんに英語の宿題教えてもらおうと思って」

「オマエは同学年に友達いないアルか?」

「何言ってんの?ちゃんといるし」

「じゃあそいつらに教わればいいアル」

「みんな同レベルだからどうにもならないの!!」

ついには開き直った紫原の態度に、氷室がクスクスと笑い始めた。

「ごめんよアツシ、見ての通りオレも今宿題中なんだ。これが終わったら教えてやるよ」

「え〜〜、明日も朝練だし眠くなっちゃうじゃんー」

ますます口を尖らせて不貞腐れていると、パシッと頭を叩かれた。何わがまま言ってるアル、と言いながら、劉は部屋の隅に立てかけてあった折りたたみ式のテーブルの脚を広げ、氷室が座る椅子とベッドの間から少しずれた場所にそれを置いた。

「こっち座るアル。英語ならワタシが教えてやる」

「劉ちん中国人じゃん・・・」

「リュウは英語得意だぞ」

即座に振り向きそう言った氷室に「知ってるし」と小声で答え、紫原は頬を膨らませた。
そんなことは知っている。部活中、今でもときどき出てしまう氷室の英語に反応し、英語で返すのは劉くらいだ。簡単な会話なのだろうが、その発音は流暢過ぎて紫原にはついていけない。それも少し、ほんの少しだけ悔しかったが、そんなことに嫉妬することこそ悔しかったので、気にしない振りをした。

「劉ちんでもいいや、教えて」

「でもいいやとは何アルか」

「教えて!ください劉ちん!」

「あーもーアツシは本当にしょーがないアルなぁ〜」

にやにやと笑う劉の顔は腹立たしいことこの上なかったが、背に腹は変えられない。紫原はベッドからズルズルと滑り落ち、小さなテーブルの前に腰を下ろした。

「劉ちんの部屋、オレの部屋と一緒で狭いんだよねー」

「仕方ないアル」

劉は紫原の向かいに座り、彼が広げた英語のプリントを手に取りそう答えた。べつに劉と紫原の部屋が狭いわけではない。二人のベッドが通常サイズより大きいのだ。陽泉高校はバスケ部の他にも全国レベルの運動部があり、県外から入学して寮生活を送る生徒が多数いる。バスケ部並に身長の高いバレー部もそのひとつであるため、寮にはあらかじめ身長2m前後の生徒にも対応できる特注のベッドが用意されていた。ただし部屋の広さは他の生徒と変わらないため、どうしてもベッドと備品以外のスペースが狭くなってしまうのだ。紫原は窮屈そうにもぞもぞと体を動かしながら、胡坐をかく位置を定めた。



「んー、(  )の中の語句を並べ替えて正しく意味の通る英文を作りなさい?また並べ替えアルか・・」

ひとり言のように呟きながら、劉は紫原の手からシャーペンを取り上げて、単語の上に次々と番号を振り始めた。紫原はのん気にその様を眺めている。10問すべてに番号を振り終えると、劉はプリントをくるりと回し、紫原に向けて返した。

「その番号順に書けばいいアル」

「うん、でもこれ、訳も書かなきゃいけないんだけど」

「そんなこと問いには書いてなかったアル」

「ええ〜〜?」

「そこまで甘くないアル。まったく、その2問目なんか、今のアツシみたいアルよ」

「はぁ?」

「It is not easy for him read that book.」

劉が2問目の解答を口にすると、ぷ、っと吹き出す氷室の声が聞こえた。

「 His help enabled me to finish the work.・・あー、これはワタシとアツシのことアルね」

氷室が肩を揺らして笑いを堪えているのがわかる。紫原は目の前にあった消しゴムを氷室目がけて投げ付けた。「いた・・っ」と小さな声を上げたが氷室は振り返ることなく、見事消しゴムが命中した後頭部を擦っている。

「劉ちん、今のってヒントになる?」

「ああ、大ヒントアルよ」

「ふーん・・わかった」

紫原のやる気に火が点いた。彼はバスケだけではなく、その気になれば勉強にだって集中することができる。教科書を開き、習った箇所を見直していく。

それからしばらくは、部屋にしんとした時間が流れた。




「終わった〜」

と、氷室が握った両手を上げて大きく伸びをした。どうやら書き写し終えたようだ。紫原が即座に反応して氷室に助けを求めるだろうと思っていたのだが、彼は氷室に「オレが終わるまで待ってて」とだけ言って、再びプリントに向かった。ムキになっているのだろうか。劉と氷室は顔を見合わせ、紫原に気付かれないように笑い合う。

氷室は椅子から立ち上がり、もう一度伸びをした。それから国語の教科書と書き写したノートを持って、劉のベッドに移動する。しばらくは腰掛けてノートを見ていたのだが、そのうちにベッドの上に足を上げ、やがてはその場にごろりと横になってしまった。劉は驚いて振り返り、氷室を見た。

「あ、ごめんリュウ、ちょっとベッド借りるよ」

劉の視線に気付いた氷室だが、彼は自分の行動に何か特別な意味があるなどとは思ってはいない。当たり前だ。寮生が部屋に集まれば、部屋の主のベッドを占領することなど、よくあることだ。だが今は訳が違う。劉はついさっきまで、このベッドで氷室の痴態を想像し、自身を慰めようとしていたのだ。大した事じゃない、うろたえるなと、劉は必死に自分に言い聞かせる。
小さなテーブルに向き直った劉は、ビクッとして目前を見た。紫原が、無表情でじっとこちらを見つめていた。

「何・・アル?」

「んー、べつに」

素っ気なく答えただけで、紫原はすぐにまたプリントの問題に向かった。部屋の中には、劉のベッドの上でノートを復唱する氷室の呟くような声だけが聞こえる。劉も机に手を伸ばして自分のノートを取り、日本語読みに直した書き下し文を目で追い始めた。

「リュウ」

トン、と指先で肩を叩き、氷室が劉を呼ぶ。劉が振り向くと、氷室は仰向けだった体を起こして片肘を突き、劉にノートを向けて、「これ何て読むんだっけ」とノートの一点を指差した。劉はテーブルから少し体を離してベッドを背に寄り掛かり、体と顔を氷室の方に寄せて、ノートを覗きこんだ。

「しこうして」

「じゃ、これは?」

「いわんや」

「あー、そっか」

「ねぇ、ここから見てると二人がチューしてるように見えるんだけど」

「!?」

心臓が、止まってしまうのではないかと思うほどに驚いた。唐突に口を挟んだ紫原の発言は、急速に劉の胸の鼓動を速める。角度的に顔が重なって見えたのだろうか。そんなに近かったわけではないが、言われてみればそのまま口付られる距離ではある。そんなこと、絶対に有り得ないが。

「何言ってるんだ?アツシがいるのにそんなことするわけないじゃないか」

氷室は劉の顔の陰からひょいと顔を覗かせて、紫原に笑いかけた。

「じゃあオレがいなかったらするんだ?」

「え?・・・ん?・・あれ?」

首を傾げて、氷室は劉を見た。

「オレ、何か日本語間違ったかな?」

「日本語とは本当に難しいアルな」

「全っ然難しくないし・・」

怒ってはいないようだが、面白くもなさそうだ。

紫原は教科書とプリントを少し乱暴に閉じて、立ち上がる。

「劉ちん、どいて」

ベッドに寄り掛かった劉が邪魔なのか、紫原は強引にその場所に立とうと劉を退けにかかった。劉は怪訝そうに紫原を見上げながらも、仕方なく腰を浮かせて移動して、場所を空けてやる。紫原はベッドに向かって立ち、身を屈めて腕を伸ばしたかと思うと、氷室をひょいと抱き上げた。

「え?ちょ、っアツシ???」

「宿題終わったから帰るよ」

「帰るってどこに?っていうか、降ろせよ!」

氷室はバタバタと腕や足を動かして暴れたが、紫原はビクともしない。

「お姫様抱っこアルか・・」

劉はやれやれと呆れた風に肩を竦め、のっそりと立ち上がった。氷室の教科書とノート、紫原の教科書とプリントを次々と重ね、紫原が持ってきたシャーペンと、氷室の後頭部に当たって部屋の隅まで飛んでいった消しゴムを拾って教科書の上に置き、それらをまとめて抱っこされた氷室の胸の上に乗せた。氷室は慌ててそれらを抱える。

「だからホントに降ろせってば!」

氷室が紫原の頬を抓って引っ張ったので、紫原は「いたたた・・っ」と声を上げ、呆気なく氷室を腕の中から床に降ろした。

「用が済んだならもう、さっさと部屋に帰るアル」

二人を追い出すかのように、劉が部屋のドアを開ける。紫原は劉に背中を押され、つんのめりながら、部屋を出た。

「ありがとなリュウ、おやすみ」

氷室も手を振りながら、劉の部屋を後にした。







暖かい部屋を追い出された二人は、寒々とした廊下を歩く。

「ねぇ室ちん」

「ん?」

「室ちんは劉ちんのこと好き?」

「・・・え?」

あまりにも意外な問いかけに、氷室は思わず立ち止まって紫原を見上げた。

「そりゃまぁ好きだよ。すごくいいヤツだし」

思ったままを答えたが、質問の意図がわからない。

「アツシはリュウが嫌いなのか?」

不思議そうな顔で見上げ、氷室は逆に問いかける。

「オレも好きだよ・・たぶん」

「たぶんって何だよ」

「うーん、よくわかんないけど、嫌いじゃない」

「嫌う理由なんか見つからないだろう?」

「うん・・そうだね」

だから、どうしたらいいのか分からないんじゃないか。



紫原は、心の中で呟いた。









**





氷室が横たわっていたあたりを手で触れてみた。僅かに残っていたぬくもりに、劉はそっと顔を埋める。氷室の匂いが分からないだろうかと息を吸い込んでみたが、香るのは、いつもの自分のベッドの匂いでしかなかった。

”チューしてる”ように見えたという状況を思い返し、あのとき目の前にあった氷室の顔に劉は顔を近付けてみた。氷室は無言で劉を見つめ、それからそっと瞳を閉じた。少し顔を傾けて、氷室の唇に自分の唇を重ねてみる。触れた唇はとてもやわらかく、それは、2回だけ口付けを交わした同級生の女子の唇の感触を思い出させた。

鍵はちゃんと閉めた。電気もヒーターも消した。もう誰も、邪魔するものはいない。劉はベッドに横たわり、口付けのその先を想像する。

唇のやわらかな感触を味わいながら、劉はベッドに乗った。仰向けにベッドに押し付けた氷室はすでに全裸で、とても不安げな表情でこちらを見上げている。

今、自分の下に横たわっているのは、もう何度も目にしてきた氷室の体。引き締まった胸も、その上に色付く両の乳首も、二の腕も、腹筋も、太腿も、ふくらはぎも、下半身の毛の濃さも、そこから垂れ下がるペニスの色も大きさも、すべて目にして知っている。
けれど、ここから先は想像でしかない。もしも、という可能性すらない妄想だ。

劉は氷室を潰してしまわないように、大きな体を少し浮かせて覆い被さった。唇を合わせ、一度でいいから触れたいと願っていた頬に触れ、何度もやさしく撫でてやる。頬にも口付けを落とし、そこから顎へ、首筋へ、鎖骨へと徐々に唇を這わせていくと、やがて胸の突起へと辿り着いた。そこは実際に男が触れられて気持ち良いのかどうかなど知る由もなかったが、劉が片方の乳首を口に含むと、氷室はビクッと体を震わせて小さな声を上げた。劉はそのまま左右の乳首を交互に口に含み、舌先で舐め、軽く歯を立てる。『ああ……っ』という声を何度も上げながら、氷室はその快感から逃れようと体を捩った。

左腕の肘を立て、劉は氷室に圧し掛からないように自分の体を支えた。そして空いた右手を氷室の下半身へと忍ばせる。やがて手に触れた氷室のペニスは、今まで風呂で目にしてきた大きさではなかった。劉の知っている氷室のそれよりも大きく長く形付き、手で支えなくとも上を向いて立っている。手を触れずにそれを見下ろしたままでいると、見られていることに気付いた氷室が両腕を伸ばしてきた。身を屈めて顔を近付けた劉の首に、氷室は腕を回す。『どうしよう? リュウ』とまるでいつもの困ったときのような口ぶりで氷室が問うてきたので、『どうして欲しいか?』と問い返すと、『何とかしてくれ』と氷室は切なげな表情で劉を見上げた。

劉は親指と人差し指で氷室のペニスを握った。二本の指で握りながら根元からゆるゆると絞り上げると、氷室は今まで以上に大きな声を上げ、腰を浮かせた。劉の首に回されていた腕は解かれ、氷室はその手で劉の二の腕を強く掴む。何度か絞り上げる行為を繰り返していると、先端の割れ目から透明な粘液が溢れ出して流れた。それを指に塗り付けようと先端に親指をゆっくりと割り入れると、氷室は腰を捩って喘ぎ、咄嗟に劉の手を挟んで脚を閉じた。閉じられた太腿の中、滑りを帯びた指先は、氷室を追い詰める。

『イかせてくれよ、リュウ……』

氷室が、声を絞り出した。

これまで紫原と氷室のセックスを何度も想像してきたが、すべては氷室が喘ぎ乱れる様を想像したいがためで、そのビジョンは非常に曖昧であった。こんなにもリアルな想像は初めてだ。

だから現実には男同士のセックスがどんなものかなど知らない。もっとも、女とも経験がないのだから、自身のペニスを欲望のままにどこかに挿れるという行為自体がすべては想像でしかない。本当は事前に何らかの手順を踏むのかもしれないが、けれどこれは、妄想だ。氷室に挿れられる箇所は、そこしか考えられなかった。

劉は氷室が閉じた脚を強引に開いた。その間に体を割り込ませ、広げた脚を両手で抱え上げる。ここしかないと思われる氷室の尻に自身の昂ぶりを宛がい、劉はそれを無理やり挿し込んだ。と同時に、氷室の先端から、白濁色の液が弾けて飛んだ。

『リュウ、リュウ…っ』

氷室が何度も自分の名を呼んでいる。
劉は返事の代わりに、夢中で腰を動かした。



「はぁ・・っ」

隣室に聞こえないように必死で声を潜め、劉は硬く勃ち上がった自身のものを扱く。達した氷室の表情を思い描きながら。氷室の尻に腰を打ち付け、今にもイキそうな自分の姿を思い浮かべながら。

「・・う・・」

有り得ない光景を脳裏に思い描き、劉は自室のベッドの上で射精した。

この日、初めて自らの手で、劉は氷室を侵した。




この日を境に、劉の脳内で氷室を抱くのは、劉自身となった。
嫌がる氷室を無理やり犯したこともあったし、誰もいない教室で制服のズボンを脱がせ、後ろから突っ込んだこともある。四つん這いで後ろから紫原に挿し込まれている氷室の口に、自分のものを咥えさせたこともあった。
想像だけで満足だった。だから現実に戻ったときも、自分を抑えることができた。

氷室に初めて出会ってからおよそ1年半。
陽泉高校での留学生生活に、終わりが近付いていた。





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