欲しいのはシャンプーじゃない 4




「リュウ!」

学校の廊下で後ろから声をかけられて、劉は振り向いた。
が、声の主のあられもない姿に、劉は暫し返す言葉を失った。

確かに校内には暖房が効いてはいるが、それにしたって上半身が、素肌に前を全開にしたワイシャツ1枚姿というのは、さすがにどうかと思う。黒くもなく、白くもなく、自分と同じくらいの肌色がシャツの隙間から覗く。

「・・・強姦にでも遭ったか?氷室・・」

理由が何であるかは分かっていたが、からかい半分で、劉は氷室に尋ねた。

「いや、そんなわけないけど、でも・・それに近かったかもな」

手に持っていた制服の上着に袖を通しながら、「まいったよ」と氷室は苦笑する。ワイシャツと同様に、上着も前が全開のままだ。

「さすがは氷室」

「何言ってるんだ、リュウだって」

「ワタシは上着のボタンだけだ」

劉の上着もまた、ボタンが留められていなかった。




今日は陽泉高校の卒業式。
日本では卒業式の日に、女子が好きな男子から制服の第
2ボタンを貰う、という風習があるらしいが、もはや何番目のボタンだろうがどこに付いているボタンだろうがお構いなしなのが昨今の女子高生らしい。もっとも、第2ボタンはどうせ貰えないから、だったらどれでも同じ、という理由もあるのかもしれないが。

何にせよ、氷室は上着のボタンはもちろん、ワイシャツの前と袖のボタンすべてと、さらにはズボンの後ろポケットのボタンまで奪われた。ズボンの後ろポケットのボタンの存在に気付いた女子にそれをあげたときには、「あたしもそっちが良かったー!」とワイシャツのボタンをあげた女子に叫ばれた。このままではズボンの前を留めているボタンさえ奪われるのではないかと氷室は恐怖に慄き、「ごめん、もう何もない」とお手上げのポーズをして逃げてきたのだ。

一方の劉も、「ファンでした」とか「応援してました」と言ってくれた女の子に上着のボタンをあげた。第2ボタンの意味を知らなかった劉は、最初に来た子に「このボタンをください」と指定されたので、素直に第2ボタンを取ってやった。彼女が去った後、それを見ていたクラスの女子が慌てて駆け寄ってボタンの意味を教えてくれたが、もう遅い。もっとも、中国人である劉にとってその重要性はよくわからなかったし、どうでも良いことでもあった。

「だってさ、何て言うんだ?あー、sewing kit のアレ・・」

氷室が手振りでじゃんけんのチョキの仕草をする。

「糸切るハサミか?」

「そう、それ!それ持って来るんだぜ?オレもう、何かよくわかんないけど恨まれてて刺されんのかな、って・・」

「あ・・っはははは!」

恨まれるようなことした覚えがあるのか、と劉が笑う。
劉は、語尾に”アル”を付けなくなっていた。
高校最後の年が明けた頃、クラスメイトたちが”このままではヤバイ。リュウが恥をかく前に・・”と心配して、”アル”など流行ってはいないことを教えてくれた。劉が呆気なく「知ってるよ」と答えると、女子たちは「心配して損した!!」と怒り、男子からは「てめーふざけんな!!」と数人がかりで羽交い絞めにされた。それでも、それらの行為が自分に対する好意であることは、痛いくらいに理解ができた。それは、残り少なくなったこの学校での生活が、名残惜しくなるほどだった。

「そういや氷室」

「ん?」

「第2ボタン伝説知ってたか?」

「なんか、都市伝説みたいだな」

氷室は笑いながら、知ってたよ、と答えた。

「なら第2ボタン、どうした?」

「さぁ、どうしたと思う?」

「知るか。ワタシはそんな伝説知らなかったよ。欲しいって言われたからあげたら他の女子に怒られた」

「それは災難だったな」

少しもそうは思っていない風にまた笑い、オレのはな・・と言いながら、氷室はズボンのポケットに手を入れた。劉の胸に、ある予感が過ぎる。

「ほら」

氷室がポケットから出して見せたのは、上着とワイシャツとコートのボタンだった。どうやら劉の予感は当たったようだ。

「オレはべつにどうでもいいと思ってたんだけどさ」

「アツシがダメ言うか」

「うん、まぁね。アツシもそういうの気にするんだって、ちょっと驚いた」

「あーハイハイ、そんなアツシも本当にカワイイな」

「何だよ、からかうなよ」

氷室は少し照れくさそうに苦笑する。

「あの・・・」

「劉くん、氷室くん」

声のする方へ視線を向けると、同学年の女子2人組が立っていた。顔に見覚えはあったが、同じクラスになったことがないので2人とも名前まではわからない。劉と氷室は顔を見合わせ、とりあえず先に名を呼ばれた劉が前に出た。

「・・何?」

ずい、と一歩前に出て彼女たちを見下ろすと、2人は劉が前に出た分だけ後退した。その姿は、まるで怯えているかのようだ。
同じクラスになったことのある生徒たちは劉の性格を知っているので何とも思うことはないのだろうが、話をしたこともなかった
2人は、あまり表情が豊かとは言えない2メートル3センチの中国人を前に、萎縮した。

「え?ちょっと、ワタシ怖くないよ?」

「あ、そういうわけじゃ・・っ」

背後で氷室がくすくすと声を潜めて笑っている。劉が振り返って氷室を睨むと、氷室は「悪い」と言って片手を上げた。

「あのっ、一緒に写真を撮って欲しいんだけど」

「写真?」

写真ならさっき教室でクラスメイトたちと散々撮ったばかりだが、そういえばクラスが違う生徒とはまだ撮ってはいない。気が付けば、周りでもあちこちで撮影会が行われている。

「劉くんと、氷室くんと、4人で・・」

「氷室と、じゃなくて?ワタシもか?」

「う、うん、もちろん」

「えっと、私は氷室くんのファンで、この子は劉くんのファンだったの。私たちさっきのボタン争奪戦に入っていけなくて、でも何か記念が欲しくて・・」

「だったら2人ずつで撮ればいいんじゃないか?」

劉の後ろで会話を聞いていた氷室が話に加わる。

「キミとオレ、リュウと彼女でさ」

「え?いいの?!」

「いいよなぁ、リュウ?」

「あ、ああ」

劉が頷くと、女子生徒たちはキャー!と興奮した様子で手を取り合って喜んだ。2人ずつで写真を撮った後、近くにいた同級生に頼んで4人でも記念写真を撮った。そして彼女たちが劉と氷室の前から去ろうとしたとき。

「待てちょっと」

劉が女子生徒を呼び止めた。劉自身にそのつもりはないのだが、カタコトである為か聞きようによっては命令口調に聞こえてしまう。恐る恐る彼女たちが劉を見上げると、劉はその目の前で、ネクタイの下からワイシャツの2番目のボタンを強引に引っ張って取り、劉のファンだと言った女子生徒へと、差し出した。

「コレでよければ」

「・・え?」

女子生徒の顔が、見る見るうちに赤く染まるのがわかった。どうしよう、どうしよう、と、へなへなとその場にしゃがみ込む。

「ほら、ちゃんと立って、もらいなよ!」

一緒にいた友達が、彼女の腕を持って体を引き上げる。立ち上がった女子生徒は劉からボタンを受け取り、それを大事そうに両手で握りしめた。

「ごめん、オレはホントにもう何もあげられるものがないんだ」

氷室が自分のファンだという女子生徒にそう言って詫びると、「最後に話ができただけでもすごく嬉しかった」と本当に嬉しそうに笑い、彼女たちは今度こそ二人の前から去って行った。

「意外だったな」

「何が?」

「ボタンだよ。リュウがあんなことするなんて」

「べつに減るもんじゃないし」

「そりゃまぁ・・って、いや、減るだろ!ボタンは確実に減るだろ!」

「あ、そうか。まったく何年経っても日本語は難しいな」

「まったくだな」

「氷室は日本人だろ・・」

そんな何気ない会話を交わしていたのだが、ふと気が付くと、自分たちの周りに人の輪ができていた。皆、揃いも揃ってデジカメや携帯を持っている。ボタン争奪戦の次は、記念撮影の嵐だった。氷室と撮りたいという女子も何人かいたが、全国レベルで活躍したバスケ部の中心選手だった二人がここに並んでいるのだ。想いを寄せているわけではなくとも、同じ高校に通っていた記念にと、一緒に撮りたがる女子が少しの列を作る。背の高い劉は、女子に合わせて身を屈め過ぎて、終いには腰が痛くなった。

「リュウ、氷室くん!」

ようやく撮影会が終わった頃、クラスの女子生徒が声をかけてきた。

”リュウ”は劉のニックネームだ。留学生として入学した頃、”リュウ”というのは日本では苗字よりも名前に入っていることの方が多いから、そのままあだ名にすればいいんじゃないか、ということになって、クラスメイトは皆、”リュウ”と呼ぶようになった。苗字の呼び捨てではなく、ニックネームとして。

「なんだ、オマエもワタシと一緒に撮りたいか?」

劉がにやりと笑うと、女子生徒の一人が「さっき一緒に撮ったじゃん」と言って、劉の背中を勢いよくバシッと叩いた。

「・・っ痛いアル!」

「あっ、アルって言った!!」

「今でもたまーに出ちゃうんだよなぁ、リュウ」

「えー、ダメじゃん」

「うるさい氷室」

思わぬ暴露に劉は顔を顰めた。照れを隠すように、劉が氷室のボディにパンチを入れる振りをすると、氷室は体を後ろに退きながら開いた両手でそれを受け止める。受け止められた・・と見せかけて、劉はもう一方の手の指先で氷室の額にデコピンを食らわせた。

「っつ・・ぅ・・っ、マジか・・」

「マジだ」

劉の大きく長い指による少々本気のデコピンが見事に当たってしまったようだ。氷室は両手で前髪を掻き上げながら額を押さえ、悶絶している。

「ばっかじゃないのー」

「ホント男子ってくだらなすぎ〜」

でもマジ痛そう〜、と同情しながらも、女子生徒たちはケラケラと笑っている。こんなくだらない男子高校生の遊びができるのも、本当にもうあとわずかだ。額を擦りながら劉を見上げた氷室は、痛そうな顔をしながらも笑っている。その顔は何だか楽しげで。劉も釣られるように苦笑を返した。

「二人で撮ってあげるよ」

一人の女子生徒が、劉と氷室にデジカメを向けた。

「そうそう、写真撮ってあげようと思って呼んだんだった」

「二人でか?」

「うん、二人ともカメラ持ってないでしょ?」

そういえば、女子とばかり撮っていたような気がする。男二人で、しかも氷室と記念撮影というのは何だか気恥ずかしくて劉は躊躇したが、氷室はいかにも嬉しそうに「頼むよ!」と言って笑った。

「リュウ、少し屈んでくれよ」

氷室の要望に応えて身を屈めると、氷室の腕は当たり前のように劉の肩を抱いた。

「氷室くん、もっとくっついちゃえ」

「リュウ、もっと笑ってよ、顔が硬い!」

たまたま通りかかった男子の友人が「あ、俺も俺も〜」と言いながら入り込もうとしたが、「ちょっと今二人で撮ってるんだからアンタはそのあと!」と女子に叱られてしまった。「何だよ贔屓かよ」と文句は言ったものの、彼は素直にいったん身を引いた。

そのやり取りが可笑しくて、劉にも自然な笑顔が漏れる。もっとくっついちゃえ、と言われた氷室は、本当に劉にくっついてきた。肩を抱いていた腕は劉の首に回され、頭をコツンと劉の頭にぶつけてくる。頬が触れそうなほどに顔が近付いたときは一瞬ドキリとしたが、不思議と劉の心は穏やかだった。

Smile だぞ、リュウ」

氷室が小声で囁く。彼の英単語混じりの日本語を聞くのも、これが最後かもしれない。「OK」と、劉は笑って答える。

「じゃあホントにいくよー」

カメラを構えた女子から、声がかかる。

日本特有のピースサインでポーズを取りながら、劉と氷室は、満面の笑顔でデジカメのフレームにおさまった。






**






ドアの向こうに、人の気配がする。
その気配で目を覚まし薄っすらと目を開けると、カーテン越しの明るさでも部屋の様子が見えたので、どうやら夜は明けているようだ。
気配の主はドアノブに手をかけたように思えたが、それを開こうとすることはなく、そのまま部屋の前から去って行った。

昨夜は荷物の整理に時間が掛かり、ベッドに入ったのは深夜3時近くだったと思う。ドアを開けて確かめる気力もなく、劉は再び眠りに就いた。





「リュウ、いる?」

コンコン、というノックの音とともに勝手にドアを開く氷室を迎えるのも、きっとこれが最後だ。

劉は今日、氷室よりも数日早く、退寮の日を迎えた。

今後は自分を誘ってくれた関西の大学に進学して、バスケを続ける。大学卒業後、中国と日本のどちらでバスケをするかはまだ決めてはいない。母国のプロチームに入ってしまうと、契約制度等により日本のプロチームに所属することは難しくなる。中国のバスケ界においては、日本に対するエージェントの少なさや、英語すら通じない言葉の壁もそれを邪魔する要因で、日本のプロバスケチームに中国人選手が極端に少ないのはその為だ。けれど、日本の高校・大学を経れば日本のプロチームに所属するという道も開ける。
もしも日本に留学せずにバスケをしていたら、母国のプロバスケットチームに入るための養成所でバスケ漬けの日々を送り、大学進学など考えもしなかったであろう。だから劉は、この陽泉高校でのすべてに自分なりの努力を捧げてきた。決して得意ではない勉強にも真面目に取り組んだ。もちろん第一は己のためだが、そうすることで自分が認められれば、母国の後進たちが同じ道を開くのにも有利になるのではないかと思ったのだ。
それでもやはり母国への想いは強い。だからまだ、大学卒業後のことは決めかねている。

「準備できたかい?」

部屋に入りながら、氷室が尋ねる。

「ああ、元々あまり物なかったし」

部屋の入口近くにダンボールが3個。シーツやカバー、着古したパジャマ代わりのスウェットやトレーナーは捨てていくことにしたので、ゴミとして袋に入れて置いてある。

「これ、寮に届いてたの預かってきたんだ」

氷室が1通の封筒を差し出した。淡いピンク地に可愛らしい花柄が描かれている封筒は、どう見ても女性からのものだ。劉は「何?」と氷室に尋ねながら、封筒を受け取った。

「写真だよ、卒業式のときの」

「アレか」

納得したように頷き劉がベッドに腰を下ろすと、氷室もすぐ隣りに腰掛けた。封筒を開けて中身を出した劉の手元を氷室は興味津々といった様子で覗き込む。劉は怪訝そうな面持ちで氷室を見たが、氷室は自分も見るのが当たり前であるかのように、にっこりと劉に笑顔を向けた。
写真のほとんどは笑顔にピースサインというものであった。けれど中には、思わず吹き出すようなものもある。

トーテムポールのように背の低い順に縦に並んで撮った写真は、もちろん劉が最後方だ。女子二人を腕にぶら下げて撮ったとき、「重い・・」とうっかり口走ってしまったら、撮影後に蹴りを入れられた。じゃんけんで負けたヤツだけ変顔をするという、まるで罰ゲームのような写真もある。そして最後に、氷室と二人で撮った写真が現れた。

「いい笑顔だな、リュウ」

「写真立てに入れて飾っていいぞ」

「あははは!!」

どうしようかな!と氷室が声を上げて笑う。

この綺麗な笑顔をもっと見ていたかった。

そんなこと、絶対に言えないけれど。

「ところでリュウ、これさっきから気になってるんだけど・・何?」

氷室の目に止まったのは、ベッドの上に置かれたスーパーの袋だった。「何だと思うか?」と劉が問う。何となく透けて見える袋の中は、大量のお菓子ではないだろうか。

と、いうことは・・・。

「朝起きたらドアノブに掛かってた。朝練の前に置いてったんだろ」

「アツシはリュウのこと好きだったからな」

「どうだか」

肩を竦めた劉は、「もっと驚くものがある」と言って、袋の中から1枚の紙を取り出し氷室に渡した。

受け取ったルーズリーフには、大きく殴り書きのような文字が書かれている。



『 りゅーちんへ

今までいろいろありがと

大学で会えるかわかんないけど

しょーらいオリンピックとかで会うかもよ

またね

紫原 』



それを読んだ氷室は、え?え?という声を上げながら、紫原の書いた文字を3度見か4度見している。劉もこの手紙を見たときは、驚いた。

「これってすごくないか!?」

「あのアツシがな〜」

確かに紫原のバスケに対する姿勢は氷室に出会ってから変わりつつあったが、まさかバスケで高校卒業後の進路や将来を見据えているなどとは、劉も氷室も考えたことがなかった。

「ジョーク・・じゃないよな?」

氷室が不安げに劉を見上げる。

「だからさっき、ジョークにできないようにしてやった」

劉はにやりと笑いながら、携帯を開いた。
いくつかのボタンを押し、開いた携帯画面を氷室に渡して、見せてやる。



『 Date : 3/9 11:12

To : 紫原敦

Sub : オリンピック

――――――――――

日本が出場できたらな。 』



Oh……」

日本の男子バスケは前回もオリンピックに出場することができなかった。一方、劉の母国である中国は、アジアで最強と言われている。氷室は首を左右に振り、小さく呻った。が、次第に肩は揺れ始め、「くっくっ・・」と声を潜めて笑い出した。

「アツシのやつ、休み時間に怒り狂うんじゃないか」

「火を点けておいてやらないと」

それに・・と、劉は付け加える。

「アツシはこの先日本の代表じゃすまない実力があるが、ワタシ中国の代表になれるかわからない。だから、自分のためにもな」

「リュウは努力家だからきっと実ると思う。頑張れよ」

「・・・・・」


氷室は?と尋ねようとして、劉は言葉を噤んだ。
東京の大学でバスケを続けることは知ってはいるが、その先を氷室は考え倦ねているように思えたからだ。それが何故かは劉にもわからない。ただ、自分にはない俊敏さと正確さを兼ね備えた氷室のバスケは、いつでも劉を魅了してきた。できることならば、続けて欲しい。氷室のあの美しいバスケがまた見たい。可能性は限りなく低いが、また同じチームでプレイがしてみたい、と劉は心のどこかで願っていた。

”ピンポンパンポーン”

廊下のスピーカーから、館内放送のチャイム音が聞こえた。
二人は黙して、耳を欹てる。

”正午のバスに乗る寮生は、5分前までに玄関に集合してください。繰り返します。正午のバスに乗る寮生は――”

駅、または空港までは、部活動の遠征等で利用していた学校専用のバスで送ってくれる。
今朝もすでに、数人の寮生が旅立って行った。およそ
3年前、劉がこの寮に来た日はたった一人で心細かったが、旅立ちは賑やかになりそうだ。紫原がくれたお菓子がきっと役に立つだろう。

「え、もうそんな時間!?」

時間を確認しようとして、氷室は思わず劉の机に目を向けた。けれどいつもの場所に時計が置いてあるはずもなく、何もない机の棚をただ空しく見つめる。劉も携帯を開いて時間を確認する。時刻は、1145分だった。

「どうしよう、リュウ・・」

「・・?」

いつものように困った風な顔をして。
この期に及んでこの男は、一体自分に何を頼ろうというのか。

「どうした?」

「寂しいよ」

「は?」


あと10分――。

あと10分堪えれば、すべては上手く行くはずだった。


「明日の朝・・いや、今晩もうここにリュウがいないだなんてオレ、理解ができない」

「何言ってる?氷室だって3日後には出ていくだろ」

「そうだけどさ、でも・・リュウとの思い出は多過ぎるよ」

寂しげに歪む氷室の顔を劉は見下ろした。
なぜ、ワタシのためにそんなに悲しそうな顔をする?
部活の仲間として、同級生の友として。
その距離を保つため、この想いに気付かれないよう今日まで必死に隠し続けてきた。
それなのに、なぜ――。

劉の口元が、動いた。

「我愛?・・」

「え?」

絶対に言わないと決めていた言葉を劉は口にした。
それは、氷室も知っている中国語だった。

驚いたような顔をして見上げてくる氷室の肩に、劉は手をかけた。氷室の顔を真正面から覗き込み、少し顔を傾ける。氷室の口元は「え?」と言ったままの形だったが、劉はその唇に、そっと自分の唇を押し付けた。案外短気な彼に殴られてもいいと思った。けれど氷室は、それを避けようとはしなかった。

初めて触れた氷室の唇は、これまで数えきれないほど繰り返してきた妄想よりもずっとやわらかく、甘美で、たまらなく愛おしかった。

もっと深く口付けたい、けれど。

劉は、触れた唇を数秒で離した。


離れていく唇が、視界の端に映る。キスには慣れていたはずだが、今のやわらかな感触が劉の唇なのかと思うと、どうしていいのかわからず動揺する自分がいた。

我愛?。口付けの前に、劉が発した言葉。それを英語に訳して心の中で再生したら、胸が苦しくてたまらなくなった。

いつだったか、好きな人はいるが告白などできるわけがない、と言って俯いた劉の背を抱き、頭を撫でてやったことがある。


「ごめんな、リュウ・・」


ずっと、気付いてやれなくて。

その想いには、応えてやれなくて。


どうしたらいいのかわからないまま、氷室は劉に手を伸ばした。
あの日のように。また、頭を撫でてやろうかと思ったのだけれど。

「ワタシこそ、すまない」

劉は、氷室が触れるよりも早くその腕を掴む。

「時間だ」

何事もなかったかのように、劉は掴んだ氷室の腕を引き上げながら、自分も立ち上がった。それからベッドの上に置かれていたリュックのファスナーを開き、劉は紫原がくれたお菓子の袋をその中に詰め込んでいく。氷室はその様を立ち尽くして見つめるしかなかった。貴重品程度しか入っていなかったはずのリュックは、ファスナーが閉まらないほどに大きく膨らんだ。

「見ろ、氷室。これじゃあまるで子供の遠足だ」

小さく笑いながら振り返った劉は、ぎょっとして、動きを止めた。

「なぜ・・・氷室が泣く?」

拳を握りしめて立ち尽くす氷室の目から、ぽろぽろと、涙が零れ落ちる。
彼の涙を見るのは、
2年のウィンターカップの試合中以来、2度目だった。

「寂しいって、言っただろ」

「・・・・・・」

言わないと決めていた言葉を告げ、触れないと決めていた唇に触れた。
それでもなお、この男は自分を拒絶することなく、別れが寂しいと涙を流す。

もうこれ以上、望むことなどないけれど。

どうか、あと1つだけ。


「氷室――」


あらためて氷室の前に立って彼を見下ろすと、氷室は慌てた風に袖で涙を拭い、「何だい?」と尋ねながら劉を見上げた。劉の両手が氷室の肩に掛かる。氷室はピクリと肩を揺らしたが、やっぱり劉を避けようとはしなかった。


「ワタシは今でも・・オマエの友達か?」

「・・え?」


氷室の目は、驚いたように大きく見開かれた。
彼は、自分に触れてしまったことでその権利を失ったとでも思っているのだろうか。
せっかく拭ったはずの瞳から、再び涙が溢れ出す。


「バカだなぁ、リュウ」


氷室は笑った。

それは、劉が想い焦がれてきた、美しい笑い顔だった。


「リュウはオレの、もっとも大切な友達だよ」


大きな背中に腕を回し、氷室は劉をやさしく抱きしめる。




ああこれで。

未練はもう、何もない。




「アリガトウ、氷室」


劉も大切な友達を、強く、強く、抱きしめ返した。











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