彼がジャージに着替えたら。

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ちょっとした騒動のきっかけは、体育の授業の前の休み時間から始まった。
体育着に着替えるため、男子も女子も更衣室への移動を始めている。劉も教室のいちばん後ろの席を立ち、椅子を机の下にしまって体育着とジャージを無造作に小脇に抱えた。

「劉、体育着忘れたから貸してくれないか?」
「ハ?」

劉に声を掛けてきたのは同じクラスの氷室だった。そう、氷室は同じクラスだ。同じクラスということは、当然授業も同じだ。劉は眉を顰め、20センチ背の低い、それでも身長183センチの氷室を訝しげに見下ろした。

「ワタシも次、体育アル」
「うん、だからジャージでいいよ。あ、劉ジャージの下も持ってるかい?」
「ン」

劉がこくんと小さく頷くと、氷室は良かった、と言って微笑んだ。

「じゃあハーパンも貸してくれよ。オレがジャージの上とハーパンでいいよな?ほら、この前のサッカーで泥だらけになったから上下とも洗濯したら、部屋に干しっぱなしで忘れて来ちゃってさ、あの先生、学校指定の着てないと評価くれないだろう?オレ、体育だけは絶っっ対に成績下げたくないんだよ」
「…………」

よくもまぁこんなにも自己中心的な言葉がぽんぽん出てくるものだなと劉はいっそ関心をして無言のまま氷室の声を聞く。確かに氷室の体育の成績は10段階の『10』で、得意科目は数学で、とにかく漢字にひらがな・カタカナという日本語全般が普通に読めないことには始まらない国語や社会と言った文系科目が苦手である帰国子女の彼にとって、体育で単位を取ることは例えばスポーツ推薦で大学を受験する際には重要な材料となるだろう。だがそれは、中国人留学生である劉にとっても同じことなのだ。

「で、ワタシは?」

一体何を着ればいいのかとそこまで口には出さなかったが、こっちのことまで考えているのかどうかを確認するためにも、劉は氷室に尋ねる。

「体育着の上とジャージの下、になるな」
「ほう……」

あっさりと答えやがったが、それは果たして氷室が決めることなのだろうか。季節は晩秋。ここ秋田では11月の10日も過ぎれば紅葉もそろそろ見頃を終えて、あっという間に冬が到来する。そんな中、借り主の氷室は長袖のジャージを羽織り、貸し主の劉に半袖の体育着を着せるつもりなのだ。しかめっ面を少し緩めて口の端を少しだけ上げると、氷室は何を勘違いしているのかニッコリと微笑んで見せた。それに応えるように、劉も嫌味を含んだ満面の笑みを返す。但し、大きな手のひらを氷室の頭上に掲げて。

「このクソ寒い中ワタシは半袖か?」
「だって劉の体育着じゃ首回り大き過ぎて肩が出ちゃいそうじゃないか。でもジャージなら前閉めればいいし、袖も折れば問題な――――え?っうわ!!」

と、驚く間もなく頭上の劉の手が氷室の頭をがっしりと掴んだ。大きな手は、まるでドリブルをするかのように氷室の頭を勢いよく上下に揺らす。その様子に気付いた誰かが「お、人間ドリブル!」と叫ぶと劉と氷室に視線が集まり、教室のあちこちに笑い声が起こった。

「……った!ぃててててっ!!ちょ、何だよ劉、やめろよ!!」
「大体オマエ、借りる相手間違ってるアル!!同じサイズのヤツ探すアル!!!」
「さっ、佐藤にも、鈴木にも、高橋にも田中にも、断られたんだよっ!!」

劉の手の動きがピタリと止まり、大きな手のひらが氷室の頭から剥がれた。散々頭を上下に揺さぶられた氷室は突然自由になった体を真っ直ぐに保つことができずに、ふらりと足元が揺らぐ。危ない、と咄嗟に劉がその体を抱き留めると、何処からか少し高い悲鳴が聞こえた。

「そうなのか?」
「そうだよ」
「あいつらみんなケチんぼアルか」
「ケチっていうか、寒いからイヤだって。だからもう劉にしか頼めない。時間もない。なぁ、頼むよ……」

上目遣いで懇願されて、たぶん本人にそんなつもりはないのだろうが、乞うような表情に少しドキッとした自分に驚いた。不意にその原因を思い出しかけて、劉は慌ててそれを頭の隅に追い払う。

「じゃあ……しょーがねーアル」

重ねられた体操服の中から学校指定ジャージの上着と体育用のハーフパンツを引き抜いて渡すと、「Thank you!」と英語で礼を言って、氷室は笑った。







*




キスをした。


先々週の出来事だ。
劉の部屋で、二人並んで床に座ってベッドを背に寄り掛かり、氷室は誰かから借りたマンガ本をパラパラと読み、劉は携帯ゲーム機でゲームに興じていた。

「でさ、佐藤が言うには最近女同士とか男同士とかでキスしてるの写メるのが流行ってるとか言い出してさ」
「ン」
「色々画像見せられたんだけど普通にいるんだなそういう遊びするヤツって」
「フーン」
「日本人はそういうところもっと固いかと思ってたけど、そうでもないのな」
「ウン」
「って劉、聞いてるかい?」
「……ン」
「絶対聞いてないだろ」
「ンー……」

大して面白くもないマンガに飽きて今日の休み時間の出来事を話し始めてみたものの、ゲームに夢中なのか、劉の口から洩れるのは気のない返事ばかりであった。特に用があってこの部屋を訪れたわけではないので自分の部屋に戻っても良かったが、それでも何となく、この後の劉の反応だけは確かめてみたいと思う。
氷室は一方的に話を続けた。

「で、あいつさ、突然オレたちもやろうぜとか言い出して―――」
「……」

小さなゲーム機を操作する大きな手の動きが一瞬止まり、劉はちら、と氷室に視線を向けた。が、それはすぐにまたゲーム機の画面に戻された。目を離した隙にゲーム上で何かが起こったのか「ああ、畜生!」と口汚い言葉を吐いた劉の指先の動きが激しくなる。その様子に、氷室は暫し続きの言葉を噤んだ。

「それで?」
「え?」
「結局どうしたアル」
「あ、ああ……」

抑揚のないその声が、無感情を装っているのならいいのにな、と思う。氷室は視線が合うことのない劉の横顔を見ながら続きを話し始める。

「そんなことさせるわけないだろう?やめろよって断ったけど面白がってるんだか案外しつこくてさ、更衣室だったから女子もいないし周りも盛り上がっちゃって大変だったよ」
「…………」
「で、結局ほっぺたにキスされたんだ。写メはあいつのスマホ叩き落としてセーフだったけど―――」
「……ああ……ああぁ……っ、クッソが!!!」

真面目に話を聞いているのかと思えばそういうわけでもなさそうで、劉は胡坐をかいた膝頭にゲーム機を何度も打ち付けた。どうやらゲームオーバーになったらしい。氷室は思わず小さなため息を吐いた。

「やっぱり聞いてないのな」
「なにが」
「オレの話」
「ハ?何だオマエは独り言聞いてもらえなくて拗ねるワガママ女子アルか」
「何だよ八つ当たりか?ゲームが下手くそなのは劉の腕前のせいだろ?大体聞き捨てならないな、ワガママはともかく女子って何だよ女子って」
「ハッ……氷室はときどき女々しいネ。チョーうぜーアル」
「何だと!?いくら劉でも怒るぞ!」

胡坐を崩して片膝を立て、氷室が胸ぐらを掴んできたが怯むことはない。この男が見かけに寄らず喧嘩っ早いのは、もはや周知の事実だ。

「アーーうっせーアルなぁもー」

息巻く氷室に対抗するように、劉も氷室の胸ぐらをぐいと掴む。身長203センチの劉と183センチの氷室の歴然とした体格差は、二人の立場を逆転させた。氷室の体が少し持ち上がったかと思うと、突然劉の顔が目の前に近付いてきて、唇を塞がれた。息が出来ないほどに深く塞いでくるそれは、劉の唇だった。

「!!!???」

訳の分からぬまま結構長く口を塞がれて、頭が混乱する。ようやく離れた劉の顔を氷室は呆然として見上げた。

「あ……な、なに、するん……だ」
「なんだ、こうして欲しいからくだらねー話してきたんじゃないアルか」
「は?ち、ちが……っ……」
「違うなら、ワルかった」
「あ、ああ」

よろよろと、立ち上がる。見上げてくる劉の視線が痛い。「本当に違うのか?」と問われているような気がして、けれど自分でもよく分からなくて、「部屋、戻るな」とだけ告げると氷室は振り返ることなく部屋の出入り口へと向かった。ドアを閉めるその瞬間まで、劉の視線は氷室の体に突き刺さっていた。


部屋に戻って鍵を閉めた。劉の部屋にいた時と同じ場所に座り込み、氷室は小さく身を屈めた。
やわらかな感触が今も唇に残っている。それが劉の唇であることを思い出してみる。
劉のことは好きだ。けれどその好きが、果たしてクラスメイトの男子の佐藤や鈴木に対する好意と同じであるのかが、少し分からなくなっているところだ。たとえばまだアメリカにいた頃何人か付き合った彼女に対する好意の方がこの想いは近いんじゃないだろうか、とか。だけど劉は男で、仲の良い友人であったので、その考えが通用するのかどうかが分からなかった。男に対しても、友人に対しても、こんな感情を抱いたことはないからだ。


唇にまだ少し残っている劉の唇の感触を思い出し、頬に、首筋に、移動させる。
胸ぐらを掴んだ大きな手が、この体のあちこちに触れるさまを想像する。
氷室は己の下半身に手を伸ばし、下着の中に徐に手を忍ばせた。

今、分かった――。
ずっともやもやとして、釈然としなかったこの感情の答えが。

友情の”好き”は、決して溜まった性欲の処理を手伝ってくれたりはしない。



翌日、朝から食堂で顔を合わせた劉の態度はいつもと何も変わらなかった。
もしかしたら劉も……という思いがなかったわけじゃない。むしろそう思わせるような言動はもう何度もあったのだが、そこを素通りすれば劉はやっぱり良き友人なのだ。くだらないことでふざけ合うし、意見がぶつかれば喧嘩もする。
「おはよう、劉」といつものように声を掛けると「おはよう」と答え、劉は大きな欠伸をひとつ洩らした。







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