| 氷室主将と紫原副主将と劉部長 2
コート上に、声が響いた。
周囲が動きを止めて同じ方向に走り出したので、集合の合図がかかったのだなと思い、劉も少し遅れて皆の後を追った。走りながら、ちら、と壁の大きなデジタル時計を見やると、そろそろ部活終了の時刻が迫っていた。 さらに個人的な指導が入ると、その返事は「はい!ありがとうございます!」だった。指摘を受けたのに、なぜそこで、礼を言うのか。 「是!謝謝!」? 「Yes! Thank you!」??? やっぱり理解ができないと思いながら、劉は何人かの「はい、ありがとうございます」をぼんやりと聞いた。 「リュウ!」 主将がまた、誰かの名を呼んでいる。 「おい、リュウ!!」 主将がこっちを見ている。隣りにいた部員に肘で突付かれて初めて、劉は自分が呼ばれたことに気付いた。なぜ気付かなかったかといえば、「リュウ」という日本語読みの発音に、まだ慣れていないのだ。「shi(是)・・」と言いかけて、慌てて「ハイ」と言い直したが、「声が小さい」と叱られたので、少し大きな声でもう一度「ハイ!」と答えた。 「”はい、ありがとうございます”じゃ」 さっき肘で突付かれたのと反対隣りから小さな声を掛けられた。ふと横を見ると、2メートルに届きそうな身長の劉と同じか、もう少し背の高い厳つい顔の男だった。名前は確か、岡村だ。その顔は何かに似ているなと思い無言で見ていると、「ホレ、早く」と顎で前を向くように促された。それを言うのは案外簡単なことなのかもしれなかったが、一度拒絶してしまったせいか、自尊心を保とうとする気持ちの方が先に立つ。「ハイ・・」と言ったきり言い淀むと、「もう、いい」という声とともに盛大なため息を吐かれた。 「でけーからってただ突っ立ってんな、ってことだよ。おい、岡村!!」 「はい!!」 矛先は、劉の隣りにいた岡村に向けられた。 「デカいの同士でちょうどいい。返事くらいできるようにしとけ」 「はい!!」 岡村は確か2年だったが、3年の主将よりも低く太い声で、大きな声を返した。
最後にもやはり「ありがとうございました!!」と皆で一礼をして、今日の部活は終了した。 劉が下げた頭を起こすと、岡村の反対隣りから、また、肘で突付かれた。誰かがいたのはわかっていたが、横目で見ても明るい髪色しか見えなかったので、誰だかまではわからなかった。「見下ろしてんじゃねーよ」と見上げてきたのは、岡村と同じ2年生の福井だった。彼は劉がこの学校の部活動に参加して早々に声を掛けてきた男だ。ついさっきも、主将に呼ばれて気付かなかったときに気付かせてくれた。 「さっきアリガト、アル」 語尾に”アル”を付けるのも、福井が日本で流行っているのだと教えてくれたからだ。 「何だよお前、ちゃんとアリガトウ言えるんじゃん」 「理由あればワタシちゃんとアリガトするアル」 「日本の高校の部活じゃ先輩にありがとうございますは当たり前なんだよ」 「中国当たり前ないアル」 「・・・んぁ?」 おそらく、中国では当たり前ではない、と言いたかったのだろう。こんな言葉もろくに通じない留学生に部のしきたりを押し付ける主将も主将だが、言えないのではなくあえて言わない劉も劉だ。腑に落ちなくてもとりあえず言っておけば事を荒立てなくて済むのになぁと思いながら、福井は首が痛くならないよう劉から一歩引いてその顔を見上げた。 「リュウ〜!」 厳しい声ではなく、親しみのある声が届いた。劉が振り返ると、劉と同じ1年生が早く早くと手招きをしている。片付けは1年の仕事だ。劉は「イマ行く!」と答えると、福井に軽く手を上げてから、同級生の元へと駆けて行った。 「ワシのことはまるっきり無視かい・・」 「怒られ損だったな」 劉のとばっちりを受けて怒鳴られた岡村を見上げ、福井はケラケラと笑った。
「で、どーするよ?」 その夜、学生寮の岡村の部屋に福井がやって来た。 机に向かっていた岡村は椅子をくるりと後ろに向けて座り、福井は机の向かいにあるベッドの上に乗り、胡坐をかいている。 「どうにかしてやらんとなぁ・・」 主将命令だしな、と福井がからかうように言うと、それもあったか・・と、岡村は大きく長いため息を吐いた。 「なぁ」 「ん?」 「”郷に入っては郷に従え”って、中国語でなんて言うんだろうな?」 「そもそもそんなことわざ中国にあるんか?」 「ニュアンス的に近けりゃいいんだよ」 「うーん・・・」 岡村はいったん机の方を向いてシャーペンで何かを書いた。再び福井の方に向き直るとノートを差し出し、「こんなんでどうだ?」と言ってノートの端っこに書いた文字を指差した。そこには、厳つい顔に似合わぬ綺麗な字で『郷入郷従』という文字が書かれている。「さすがにそんな簡単じゃねーだろ」と鼻で笑って、福井はノートを手で退けた。 「この部屋パソコンねーしなー」 「お前の部屋行ったらあるんかい」 「スマホぐらい持っとけよ」 「自分も年期の入ったガラケーのくせに何言っとるんじゃ」 「はぁ・・誰かに借りるっつーても、こんな時間だし・・岡村、電子辞書持ってねーの?」 「中国語なんぞ入っとらんわい」 「役に立たねー辞書」 「まさか日本語と英語以外使うとは思わんじゃろ。福井こそ持っとらんのか」 「あるぜ、学校に」 「そうかい・・」 「・・・あ」 「・・ん?」 「アイツ、英語ならわかんじゃね?」 「おお、なるほど」 「よし、早く調べろ。で、行くぞ」 「行く?・・どこに?」 「リュウの部屋だよ」 「もう寝とるんじゃないか?」 「善は急げっつーだろ」 「ったく、せっかちじゃのう」 岡村は呆れた風に苦笑して、机の引き出しの中から電子辞書を取り出した。
ドンドンドン! と、ドアを叩く音に心底驚いて、劉は思わずベッドから跳ね起きた。鍵のかかっていないドアが無遠慮に開けられたかと思うと、「リュウ!」という声とともに、巨大な影とそう大きくもない影が真っ暗な部屋の中に侵入してきた。 「ほれ、やっぱ寝とるわい・・」 「まだ日付け変わってねーのに何寝てんだよ」 カチ、とスイッチを入れる音がして、部屋の電気が点けられた。突然の眩しさに、劉はギュッと目を閉じる。 「おい、リュウ」 明るくなった室内で、劉がいるであろうベッドに目を向けると、ベッドの隅っこに体を寄せて、怯えた小動物(まったくもって小さくはないが)のように縮こまる劉の姿があった。 「・・・・ai?」 「おいおい、怯えとるじゃろが」 「ワリィ、ワリィ・・驚かすつもりはなかったんだ」 これに驚かずに何に驚くというのだろう。心臓はまだドクドクドクと激しく脈を打っていたが、犯人を知った安堵感からホッと息を吐くと、劉は這うように移動して、ベッドから足を下ろした。 「ドロボウ来た思たアル」 「バッカ、泥棒がわざわざドア叩くかよ」 「あ・・・・そうネ」 劉はふっと笑った。 身長2メートル弱とバスケ部の中でも岡村の次に背が高く、切れ長の目は吊り上っている上に、目つきも鋭い。それは一見するとひどく性格のキツそうな印象を受ける。けれどこうして笑った顔を見ると、その顔は案外幼く、確かに自分たちよりも年下の高校1年生の顔だった。 「でな、リュウ、今お前に必要なのはコレだと思う!!」 見ろ!と言わんばかりに福井と岡村は、それぞれルーズリーフを1枚ずつ劉の目前に差し出した。 「・・・???」 福井の持っている紙には、『when in Rome, do as the Romans do.』。 岡村の持っている紙には、『郷 入 郷 従』。 どちらもサインペンで、紙いっぱいに大きな文字で書かれている。『ローマではローマ人のするようにせよ』。英文の方はわかったが、漢字四文字は何だかおかしい。ただ、文字を入れ替えるとわかるようなわからないような、少しモヤモヤした気持ちになった。 「ことわざ、わかるか?proverb・・だっけ?」 少し自信なさげに尋ねる福井に、劉はコクリと頷いた。 よっしゃ、と声を上げ、福井と岡村は顔を見合わせる。 「いいか、このRomeは陽泉高校バスケ部で、Romansは陽泉高校バスケ部員だ」 福井は劉の学習机の上に紙を置き、持参した岡村のサインペンで”Rome”を消して”陽泉高校籠球部”に、さらに”Romans”を消して”陽泉高校籠球部員”に書き換えた。続けて岡村も、「ワシのはもっと簡単じゃ」と言いながら、ふたつの”郷”の字を”日本”に書き換える。 何だかわけのわからないことわざが出来上がったが、それぞれを眺めていた劉の脳裏に、ある言葉がスッと浮かんだ。 「~~~ … ~~~ …」 それは早口な中国語で、岡村と福井にはまったく聞き取れなかった。「何?」「何だって?」と二人は首を傾げている。劉は福井の手から紙を取り上げ、僅かに空いているところに『入?隨俗』という文字を書いた。 「中国、コレ」 そう言って書いた文字を指差すと、岡村と福井の顔は、みるみるうちに満面の笑顔になった。 「おい、ちょっと通じてんじゃね?コレ」 「中国にもあったんじゃ、”郷に入っては郷に従え”」 嬉しそうにハイタッチなどしている一学年上のこの二人は、なぜ、学年の違う留学生の自分のためにここまで一生懸命なのだろう。 日本に来ることは一年前から決まっていたので、日本語の勉強はしていた。けれどいざ日本に来てみれば、文化やしきたりや、考え方の違いという言葉以上の壁があった。その壁が今、少しだけ取り除かれたような気がする。 「オレたちの言いたいこと、わかるか?」 「・・・スコシ?」 「そのうちいっぱいわかるようになるじゃろ」 「だから明日も部活、頑張ろうぜ」 「・・・・・・・・・」 暫しの沈黙に、岡村と福井は不安げに劉の顔を覗き込む。 「・・ハイ、アリガトゴザイマス」 そう言ってみたら、岡村に頭をガシガシと撫でられて、髪がぐしゃぐしゃになった。 少し、嬉しくて。 陽泉高校に入学して、間もない頃の話だ。 |