本日のふたり





東京都某区。とあるマンションの集合玄関入口のインターホンで部屋番号を入力すると、向こうはこちらの姿が見えているからか、相手を確認する声もなく「今開ける」というひと言が返ってきただけで、オートロックはあっさりと解除された。

開いた扉から中に入り、エレベーターに乗り込みJのボタンを押して、暫し上昇を待つ。十一階で止まったエレベーターのドアが開いたので出ようとすると、開いた扉ギリギリのところに人が立っていて、劉はビクッとして、思わず一歩後退した。

「驚いたかい?」

満面の笑みを浮かべて劉を迎えたのは、このマンションの住人・氷室だった。劉は少し呆れた風に肩を竦める。

「私じゃなかったらどうするんだ。不審者扱いされるゾ」

もしも立っていたのが氷室でなかったら、普通じゃないエレベーターの待ち方に、劉はきっとその人物を変人認定していたであろう。

「大丈夫だよ。だって劉だってわかってたし、それに―――」

氷室は劉の肩に手を掛けて、頭をコツンと寄せながら、「一秒でも早く会いたかったし」と言った。よくもまぁ恥ずかしげもなくそういう台詞が吐けるなと思うが、しっかりとその言葉にドキっとさせられている自分がいる。返事が欲しいのか、氷室は首を傾げてこっちを見上げている。素直に私もだ、と答えればいいのにどうにもそういう愛情表現は不得手で、「監視カメラに映ってんじゃないのか?」と劉は素っ気なく答えた。返事に不満を洩らすかと思ったがそんなことはなく、氷室は「死角くらい把握してるよ」と言って、もう一度劉の肩に頭を寄せた。



*



「どうぞ」

と通されて、劉は氷室の住む部屋へと足を踏み入れた。ゆっくりと、玄関のドアが閉まる。

と同時に、劉は肩に掛けていたバッグと手に持っていたスーパーの袋を無造作に床に置いた。靴を脱ぐこともせず、いきなり氷室を抱き寄せて、劉は性急に唇を重ねる。それに応えるように氷室が劉の背に腕を回すと、劉は氷室の黒髪を掻き抱き、さらに深く口付けた。舌を絡め、口内を侵し、貪るような少し長めの口付けに危うく体の中心が反応してしまいそうになる前にと、二人はようやく唇を離す。めずらしく積極的な劉の行動に、氷室は何かを言いたそうに劉をじっと見上げた。

「一秒でも早く会いたかったんダロ?」

まるで自分の意思ではなく氷室の要望に応えたかのような口ぶりで、劉は口の端を少しだけ上げる。

「素直じゃないなぁ」

と肩を竦めて氷室も笑い、劉はバッグを、氷室はスーパーの袋をそれぞれ提げて、奥の部屋へと向かった。




二人が高校三年の時以来七年振りに寄りを戻したのは、およそ三カ月前のことだ。

劉は現在二十六歳。氷室は二十五歳。氷室はこのマンションで一緒に暮らしたいと言ったが、それはできない、と劉は即答した。
そもそも氷室が所属するナショナルバスケットボールリーグは、名前を変えつつもここ日本に古くから存在するバスケットボールリーグであり、比較的年俸が高い。チームを代表する人気選手であり、メディアへの露出も多く世間一般的にも認知度の高い氷室は、日本のバスケットボール選手としてはかなりの収入を得ている。
一方、劉が所属するプロバスケットボールリーグは設立から十年足らずと歴史も浅く、年俸もずっと安い。
まったく異なる二つのリーグの間には非常に根深い確執があり、後から勝手にプロリーグが設立された当時には、互いのリーグの選手同士が会うだけでもペナルティを科せられるという理解不能な制度があったものだ。今でこそ両リーグは少しずつ歩み寄ってはいるが、そんな間柄に身を置きながら、当然同棲などできるはずがない。いや、リーグ間の確執云々よりも、そもそも違うチームの選手同士が同居すること自体有り得ないだろうということに、どうして氷室は気付かないのか。

「なんでオマエはそう考え無しなんだ」と眉を歪める劉に「だってもっと一緒にいたいじゃないか」ときっぱりと言い切る氷室は高校生の頃から目的のためには手段を選ばなかった、といえば何処となくカッコは良いが、その実単に後先考えていないだけであることを知っている劉は、当時と同様に軽いため息を吐いたものだ。

渋々同居の件を諦めた氷室は、「じゃあお互いもっと近くに引っ越そう」と言い出したが、埼玉のチームに所属する劉は東京との境にある埼玉県内に住んでいて、しかも、氷室が暮らす家賃の高い都心のマンションを借りられるような余裕はまったく無い。すると氷室は「じゃあオレが埼玉に引っ越すよ」と言い出したので、「バカかオマエは?」とさらに大きなため息を吐いて話を終わらせたのが、つい先日のことだ。

『Love is blind(恋は盲目)』なんていう西洋のことわざが頭を過ぎり、それはそれで少し嬉しくもあるのだが、如何せん氷室という男は直情的過ぎる。ただ、この男がバスケ以外でこんな風に情熱的であることを知っているのは、今に限って言えば自分だけなのだと思うと、それはやっぱり嬉しいことであった。

リビングに劉はバッグを置き、氷室はリビングから繋がるキッチンのカウンターにスーパーの袋を置いた。袋の中身は今日の遅めの昼食用の食材で、劉が駅からここに来る途中のスーパーで調達してきたものだ。
氷室はカウンターの中に入り、冷蔵庫から五百ミリリットルのペットボトルの烏龍茶を取り出して、劉に差し出した。

「グラスいる?」

「いや、いい」

受け取ったペットボトルの蓋を開け、劉は三分の一ほどを一気に飲んだ。九月とはいえ残暑厳しい中を歩いて乾ききった喉を冷えた烏龍茶で潤す。

「シーズン始まったらなかなか会えなくなるな」

約三カ月間のオフシーズンが、間もなく終わる。お互いに試合は土・日曜日に集中しているが、そうそうオフ日が合うとは思えない。特に氷室は試合のない日も取材に撮影にと忙しいので、なおさらだ。シーズンオフの今だって十日に一度会えるかどうかなのに、一体どうなってしまうのだろう。

「オレ、我慢できるかなぁ」

と何とは無しに言った氷室に、

「何の我慢か?」

と劉が意味ありげな笑みを洩らす。

「まぁ、いろいろ? セックスもだけどそれより劉に会えないのがオレは嫌だな」

「…………」

からかい半分だったのに、真顔でそんなことを言ってくる。

「ンなこと言ってると犯すゾ」

照れ隠しにそう嘯いたら、「それは後でな」と、綺麗な笑顔で返された。
本当にこの男は……。
十七歳のあの頃から、どれだけ人の感情を煽れば気が済むのか。

「足腰立たなくしてやるヨ」

「うーん、明日の練習行ける程度で頼む」

今度は少し照れた風に、氷室は微笑した。




**




「で? お昼ご飯は何を作ってくれるんだい?」

「私が作ったら意味ないダロ」

ニッコリと微笑みながら尋ねる氷室を劉は見下ろした。
どちらかの部屋で料理をするというのは、これが初めてだった。劉はごく簡単なものなら自分で調理して食べるが、氷室はほとんど料理というものをしたことがない。ついでに言えば、劉には半年ほど前まで付き合っていた彼女がいたので度々手料理を口にしていたが、氷室が最後に彼女と別れたのはすでに二年前。ほとんど毎日、出来たものを買ってくるか、或いは外食だ。自炊する気がないわけではないのだが、何度か挑戦しては尽く失敗してきた。どうして上手くいかないのかがわからないので、改善のしようがない。そこで、簡単な料理なら作れるという劉に、本当に簡単なものを教えてくれと頼んだのだ。

「もちろんオレも手伝うよ。で、何?」

「餃子」

「お、本場の味かい?」

「いや、日本の餃子」

劉は袋の中から買ってきた食材を取り出しながら言った。

「日本の餃子?」

「向こうではほとんど水餃子だったからな。残ったら焼いて食べたりもしたケド」

「ふぅん、そうなんだ。っていうかさ劉?」

「ン?」

「いきなり餃子って、ハードル高くないか?」

「何言ってんだ」と、劉はカウンターの上に綺麗に並べて置いた食材を「コレ」と数回指差した。

「混ぜて包んで焼くだけだ」

指の先に並んでいるのは、透明な袋に入ったみじん切りの野菜と、〈手作り餃子の素〉と書かれた赤いパッケージと、挽き肉一パックと、大葉が一把、餃子の皮が二袋だ。

「……ホントに?」

あまりにも単純な調理法に、氷室は眉を寄せて疑いの眼差しを劉に向ける。

「腹減った。すぐに作るゾ」

視線を受けた劉はにやりと笑い、振り返って手を洗い始めた。




彼女がいた頃にはそれなりに作ってもらっていたらしいので、さすがに最低限の調理器具はあるはずだ。まな板と包丁とフライパンは氷室がすぐに出してくれたが、もう一つ足りないものがある。

「ボールないのか?」

「ボールって、バスケの?」

「阿呆か。『ball』じゃねーヨ、『bowl』だ」

「わかってるって、冗談だよ」

氷室は笑いながら、棚の上の扉を開き、ステンレスのボウルを取り出した。

「さて、氷室」

劉はひと通り洗った調理器具を配置して、腰に手を当てた。氷室は少しワクワクしながら、劉の声を待つ。

「コレ全部ボールに入れて、混ぜ混ぜして、この皮で包んでフライパンで焼く。以上」

「……それだけ?」

「さっきそれだけ言ったろ」

「うん、超簡単でいいけどさ、何かもっとこう〜、包丁でトントンみたいな……って、アレ?」

氷室は後ろを振り返り、「でも劉、コレは?」と調理台に置かれたまな板と包丁を指差した。

「ああ、それは大葉を切るネ。みじん切りは氷室には高度過ぎるから私がやるヨ」

「え、じゃあそれ、オレがやる。みじん切りって細かく刻めばいいんだろ?」

自分には高度だと言われたのが気に障ったのか、或いは興味本位か。何れにせよ、飽きっぽいくせに好奇心旺盛なのは、高校生だったあの頃と変わらないようだ。

「ん、そうか?じゃあ私こっち混ぜ混ぜしてるネ」

「OK、まかせて!」

嬉しそうに笑って、氷室は大葉の入った半透明の小さなポリ袋を手に、まな板に向かった。

トントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントン……。

キッチンカウンターの上で、挽き肉と、キャベツとニラのみじん切りと、味付けの素をボウルに入れて混ぜている劉の背後では、さっきからもうずっと同じ音が続いている。ものすごく、嫌な予感しかしない。けれどまぁ、自分で言い出したことだし、これも己の性格を省みる良い機会だと、劉は無視を決め込んでいた。

同じリズムを刻んでいたそれはやがて、トトトトトトトトン、と高速になったかと思えば、次には、トン! トン! トン! トン! トン! と、強く叩き付けるような音に変わった。

「なぁ、劉」

ようやく諦めたのか、氷室が声を掛けてきた。やれやれ、と劉は後ろを振り返る。

「この包丁、全然切れないぞ?」

いやどう考えても包丁の所為じゃねーだろ、と思いつつも口には出さなかった劉の目に映ったものは、一把(五〜六枚だろうか)がそのまま置かれ、上から散々叩き付けられた大葉の成れの果てであった。ぺしゃんこに潰れているものの、まったく切れていないのだから、確かに包丁の切れ味も悪いのかもしれない。だがこれは、それ以前の問題だ。

「刺身のたたきじゃねーんだから……」

劉は手のひらに付いている餃子の具を指でこそぎ落としてから手を洗い、まな板と氷室を交互に見下ろした。

「ったく、頭使えヨ、バスケ以外にも……」

「失礼だな、ちゃんと使ってるよ。そりゃまぁ、コレは上手くいかなかったけど……」

氷室は拗ねた風に口を尖らせた。こんな姿を女性ファンが見たらきっと、『可愛い〜〜』と大騒ぎだろうな、なんてことをふと思ったら、何だか妙な優越感が湧いてきた。劉はクックッ、と肩を揺らして笑いを堪える。

「何が可笑しいんだよ。絶対オレのことバカにしてるだろ」

「してねーヨ。ホラ、包丁貸せ」

氷室が不満げに包丁を劉に渡すと、劉はまず、口にするには向かない大葉の茎の部分を切り取って捨てた。そこからは氷室からすればまるで魔法のように、一つ二つと折り畳んだ大葉を細く縦に切ったかと思えば、向きを変えて、次にはその切り目に交差するように細く切り目を入れていく。ものの一分と経たないうちに、細かい大葉のみじん切りが出来上がった。氷室はここで初めて、みじん切りはどんなに強く叩いても出来上がらないのだという事を学ぶ。すでに混ぜてあった具に大葉のみじん切りを加えてさらに混ぜれば、餃子の具が出来上がった。

「あとはこれで包んで焼くネ」

「オレにもできるかな」

「ゆっくり教えてやるから大丈夫」

水を入れる深い器とスプーンを二つ氷室に用意してもらい、劉はまず、ボウルに入った具をスプーンで半分にした。さらに、「こっちが私、こっちが氷室。半分ずつ一袋作れば平均するダロ?」と言いながら、劉は二袋ある餃子の皮のうちの一袋を氷室に渡し、自分も袋を開ける。「相変わらず細かいな」と感心して言ったら、「氷室が大雑把なだけだ」と返された。文句のひとつも言いたいところだが、まったくその通りなので返す言葉もない。ああこんなこと高校生の頃にもよくあったな、なんて当時を懐かしむと、思わず笑みさえ零れる。

「どうした?」

「ん?何でもない」

「次、包み方な」

学校でも寮でもないのに、劉が傍にいる現実。何だか胸の奥がくすぐったい様な感覚に陥りながら、氷室は「うん」と頷いた。

「まず、スプーンでこれくらい取って真ん中に乗せる」

劉は小さじに山盛りに掬った具をもう片方の手の上に乗せた餃子の皮の真ん中あたりに置いた。氷室も同様に皮の上に具を乗せる。次に、皮の淵の半分ほどに糊代わりとなる水を指先で塗り、「ハイ、真ん中閉じてー」と具の入った皮を半分に折って、半円になった皮の天辺を閉じてくっつけた。氷室も同様にして、半円を作る。

「で、右二回、左二回」

劉がそれはゆっくりとひだを左右に二つずつ作ったところで、氷室は「あれ?」と言って首を捻った。

「ホレ出来上がり。簡単ネ」

「ちょっと待って劉」

「ン?」

「今の、どうやった?」

かなりゆっくりやって見せたつもりだが、氷室には理解できなかったらしい。劉はもう一枚に具を乗せて水を付け、さらにゆっくりと氷室に見せながらひだを作る。

「真ん中持って、一回〜」

「一回〜〜、あれ?」

「何かチガウ……」

劉と同じ動作をしているつもりなのに、何かが違う。よく見れば、真ん中に向かって作るはずのひだが、外側に向かって作られている。かえって難しいひだを作る氷室の手元を見ながら、「オマエ器用だな……」と、劉は感心した風に笑った。

「そっちじゃなくて、こっち向き」

「こう?」

「そうそう」

「できた!」

ようやくできた初めの一個を氷室は嬉しそうに皿に乗せる。

「その調子で、あと十九個な」

「そんなに? 二人で――四十個も作るのか?」

「残ったら冷凍しておけばいいネ」

「なるほど」

斯くして、氷室の挑戦が始まった。悪戦苦闘する氷室の横で、劉は素早く餃子を包んでいく。しかも形が均等でとても綺麗だ。

「ずいぶん慣れてるんだな、劉」

元カノとでも一緒に作った成果かな、と思うと少し恨めしかったが、劉の答えは違っていた。

「子供の頃、おかあさんのお手伝いでよく作った」

「ああ、そっか……」

おかあさんのお手伝い、という言葉は二メートルを超える身長の劉には何だか不釣合いであったが、そこに籠められた思いはとても深いのだろうなと思う。劉がどうして餃子を選んだのかは知らないが、故郷の味、というものに拘ったのだとしたら、それは何だか嬉しい気もする。

「劉さ、」

「ン?」

「高校の頃は、お母さんのことマーマ(??)って言ってたよな」

「そ、そうだったか?」

「そうだよ。一度だけ、ご両親のこと話してくれたことがあった」

「よく覚えてるな」

「劉は忘れちゃった? 二人で夜にマツキヨ行ってさ、何の話か忘れちゃったけど、劉がちょっとだけお父さんとお母さんのこと話してくれて……で、そのあとポケットの中で、初めて手、繋いだ」

氷室が窺うように劉を上目使いで見上げてくる。

ああ、そうだ。思い出した。

「流星群の、話だったな」

「そうそう、それだ? 懐かしいな……あの頃ってさ、手を繋ぐだけでオレ、結構ドキドキしてたんだよ?」

「私もだ……」

劉は懐かしさに苦笑する。七年というブランクはあったが、あの頃も、そして今も、自分にとって氷室はとても尊い存在だ。それは、大切な家族と比べることが難しいくらいに。

「氷室」

「ん?」

「秋田でみんなと会ったとき、岡村サンが帰化のこと話したけど私、できない言ったろ?」

「……うん」

三か月前、陽泉メンバー五人で飲みに行った時のことだ。

劉が彼女と別れたのは、バスケを辞めたら中国に帰るかもと言ったからだと告白した時、先輩の岡村が日本への帰化の可能性を劉に尋ねたが、答えはNOだった。


「私、もう一度おとうさんおかあさんに聞いてみようと思う」

「……え?」

なぜ、突然そんなことを言い出すのだろう。劉が日本国籍を得ることを拒んだのは、その話をしたら親に泣かれたからだったはず。さらに劉はあの時、「おとうさんおかあさんがとても大切」と言ったのだ。

劉の真意はわからない。外国人選手枠ではなく、帰化選手枠となって試合への出場機会を増やすという、あの時拒否した岡村の案を考え直す気になったというのなら、応援してやりたいと思う。けれど、もしもその心の変化が自分の存在によるものだとしたら、たとえ嬉しくあってもそれは絶対にダメだと氷室は己に言い聞かせる。

「そっか……うん、でもオレ、ご両親の事とても大切に思ってる劉もすごく好きだよ」

「でも今のままじゃ私、バスケ辞めたら日本にいられない」

「何か仕事探せばいいよ。で、中国国籍のまま永住ビザを取るとかさ」

「私、バスケしかできない。仕事簡単に見つからない。大学でバスケした同胞、みんな中国帰った。向こうでバスケしてる。残ったの私だけ。私日本人なりたいわけじゃない。ただ、氷室……私ずっと一緒にいるの、迷惑か?」

照れた時、言い難いことを言う時、昂った時、劉の流暢な日本語は途端に影を潜め、どこか片言調の早口になる。普段は気にも留めないが、こういう時に劉が中国人であることを思い知らされて、少しだけ、未来が不安になる。

「一緒にいたいよ、ずっと」

「だったら―――」

「焦らないで、劉。今はこうして一緒にいられるんだ。劉のお父さんとお母さんだって、今は反対しててもいつか気持ちが変わるかもしれないだろ? 泣かれて踏み留まったやさしい気持ちも、忘れちゃいけないと思うんだ」

「…………わかった」

劉は不満げに、けれど頷いた。ここで激昂しても、氷室に当たっても、何も変わらない。故郷を捨てるのかと泣いた母の気持ちも痛いほどわかる。劉自身も、母国が大切だ。氷室は「オレが埼玉に引っ越すよ」とは言ったが、「オレが中国に行くよ」とは言わない。当たり前だ。言わせるつもりもないし、言って欲しいわけでもない。だからいつの日か、また別れが待っているのではないのかと、ときどき不安になるのだ。

今は出口が見えないけれど。もう少し落ち着いた大人になったとき、最善の答えを見つけることができるだろうか。劉の脳裏に、バスケを辞めて家業を継ぐと言った岡村の顔が、ぼんやりと浮かんだ。

「皮が乾いてきた。さっさと作るネ」

「よし、頑張ろう!」

「アリガトウ……氷室」

昂った感情を諫めてくれたことに礼を言うと、氷室はやさしく微笑んで、乞うように顔を上向かせながら「ん、」と催促をしてきた。劉も小さく笑い、向けられた唇に軽く、口付けた。







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