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試合中に殴られた。 今思えば、タイムアウト中だったとはいえよくぞ退場にならなかったと思う。恐らくは、殴られた紫原が人並み外れた巨体であったために全力のパンチがヒットしても顔が揺らいだ程度で済み、周囲に大っぴらには気付かれなかったおかげであろう。 親に叱られた時や兄と喧嘩をした時に叩かれたことはあったが、顔面を拳で殴られたことなどまったくの初めてだった。いや、普通に生活をしていれば、一生のうちに顔面にグーパンを食らう人間の方が圧倒的に少ないはずだ。 そんな風に唐突に人のことを殴っておきながら、氷室は涙を流した。オレが欲しいものを持っているお前が勝負を投げようとしている、怒りで気がヘンになる、と言いながらはたはたと零した涙は上から落ちてきて、紫原の頬を濡らした。 どんなに努力を重ねても、決して届くことのない高み。兄弟の契りを交わした弟分の火神に歯が立たず、羨望と、嫉妬と、屈辱に苛まれた果ての氷室の行動を哀れだと思ったのは一瞬で、間違っても氷室のためではないはずだけれど、あの時はただ、どうしても勝ちたいと思ったのだ。 かつてないほどに全力で戦って、それでも結局は、負けた。 負けて涙を流したのは、紫原の方だった。
あれからおよそ一年弱。紫原より一学年上級生の氷室は今、ここ陽泉高校での最後の大会を控えている。夏のインターハイで優勝を逃した氷室たち三年生が、高校男子バスケットボール界の頂点に立つ最後のチャンスだ。 主将の氷室の意気込みはこれまで以上にウザい……と言ったら怒られるのであえて言わないが、二年生の一学期に編入してきたあの頃のクールなイメージはどこに消えてしまったのかと思うくらいに、無駄に熱い先輩ではあった。
「室ちんさぁ」 「ん?」 「なーんか前に心はHOTで頭はCOOLにだっけ? そんなん言ってたけど、最近心も頭もすげーHOTだよね〜」 「えっ……? そうか?」
とある日の、放課後練習後のことだ。少し呆れた様な、けれどのんびりと間延びした声に対し、ものすごく意外そうな顔をして、氷室は紫原を見上げた。 自主練に付き合ってくれとしつこく懇願されて仕方なく付き合ったが最後、もう一回、あと一回を何度も繰り返されて、いい加減面倒臭くなってきたところだった。「室ちんのあと一回って何回あるわけ!?」と辟易しながら問えば「ゴメンゴメン、じゃああと十回で終わらせよう」と平然と答える彼の頭の中にはたぶん、九割がたバスケの事しか詰まっていないのだと思う。そんな彼自身、練習に熱が入り過ぎていることに気付いていないというのはべつに驚くほどのことでもなかったが、何となく自覚させた方がいいような気がしていたので、とりあえず話を振ってみた。
「それはマズイな」 「自分で気付いてなかったの?」 「ああ、まったく。オレはそんなに暑苦しかったかな?」 「うん、まぁー、室ちんの暑苦しさで体育館の温度がちょっと上がりそうなくらいにはね〜」 「そうか……」
冗談めかして言ったのに、氷室は少し深刻な面持ちで手にしたボールを見つめながら、俯いてしまった。
「べつに」 「ん?」 「それが悪いって言ってるんじゃないし」 「え? あっ……!!」
バチン、と音を立てて、紫原は氷室が手にしたボールを床に叩き付けた。奪い取ったボールを何度か床に突いてから、ひょいと器用に片手の上に乗せて見せる。
「ほら、あと十回だっけ? まずは一本、止めて見せてよね〜」 「あ、ああ」
確かに熱くなりすぎるのは鬱陶しいが、それが悪いとは思わない。そんな考えを持つこと自体、バスケに対する考え方がずい分変わったものだと自分でも少し意外に感じたりするのだけれど、それ以上に、不安なのだ。こんなにも必死なこの人が、諦めたと見せかけて本当はいまだに夢を見ているこの人が、再び打ちのめされるんじゃないだろうか、とか。 紫原自身、傲りなどではなく、十年に一人の逸材が奇跡的に集まった『キセキの世代』と謳われる存在の一員であり、高校バスケ界で最も高いレベルであるという自負は持っている。その『キセキの世代』に限りなく近い実力を持つはずの氷室が、現実的にはどんなに努力を積み重ねても決してその高みには手が届かないということも、痛いくらいに分かってしまっているのだけれど。 味わわせてやりたい、と思う。 だけどそれは、叶わない現実だから。 無駄のない、流れるようなモーションから氷室がシュートを放つ。指先を離れたボールは綺麗な弧を描き、シュッ、という小さな音を立てながら、ゴールを潜って床へと落ちた。
「なんだ、飽きたのか?」
微動だにせずその様を見つめる紫原を訝しんで、氷室がゆっくりと近付いてくる。 こんなにも美しいシュートを他に知らない。こんなにもバスケを愛している人間を他に知らない。それでも手が届かないのなら、せめて、見せてやりたい。 だってきっと、二人でなら―――。
「ん? お、おい……っ、アツシ!?」
突然手首を掴まれた。ぐいと引き寄せられたと思ったら、長い腕の中に、体ごとふわりと包み込まれた。一瞬何が起こったのか判断出来なかった氷室に対する紫原の行為は、触れるか触れないかくらいの、ひどく遠慮がちな抱擁だった。
「どう、したんだい?」
紫原の腕の中、戸惑いがちに、それでも穏やかな口調で氷室が問う。あまりにも唐突な行為であったが、それを氷室が拒むことはなかった。どくどくどくと、心臓がく鳴っている。もう少し強く触れたいという衝動を紫原は必死で胸にしまい込む。
「おまじないだし……」 「おまじない?」
腕の中から見上げてくる氷室の顔を見ることは何だか躊躇われて、紫原の視線は宙を彷徨う。代わりに、その体を包み込む腕に少しだけ力をこめた。
「今度こそオレたちがてっぺんに行く、おまじない」 「…………」
氷室は答えなかった。何も言わずにただ、紫原の肩にこつんと額を寄せる。顔は見えないから、笑った気がするのはたぶん気のせいなのだろうけれど。
「すごく、効き目がありそうだな」
やがて肩下から聞こえてきた声は、どこか嬉しそうに、紫原の耳に届いた。 このままこうしている状況が普通じゃないことはお互いに理解している。それでも何だか離れ難いのは、この行為が、本当に二人が頂点に立つための儀式のような気もしていたし、もっと、まったく違う感情が潜んでいるような気もした。聞くのが怖かった。どちらかがそれを尋ねたら、二人で笑って、じゃあやめようか、なんて。そんな言葉で、無かった事になるんじゃあないだろうか。 動くことも、声を発することもなく、暫しの時が過ぎる。もうほんの少しだけ腕に力を入れてみようかと紫原が勇気を出した時、ガタッ、と体育館の扉の動く音がして、二人の体は弾かれるように勢いよく離れた。
「オマエら〜、まだいたアルか? いい加減にするアル」
開いた扉の隙間から顔を覗かせたのは、氷室と同じ三年生のバスケ部員であり、中国人留学生の劉偉であった。
「なんだ、劉か」
氷室は何事もなかったような素振りで、劉に向けて軽い声を返した。紫原もそれに倣い、何気ない振りをして氷室から少しの距離を置く。
「なんだとは何アルか。部室の掃除終わったから、ここの鍵も返して早く帰りてーアル!」
部の規律は厳しく、掃除当番や鍵当番は学年に関係なく順番に回ってくる。今日はどうやらその当番が、最上級生で副主将でもある劉の番のようだ。すでに制服に着替えてカバンも肩に掛けている劉は、体育館の入口で通学用のローファーを脱いできたのか、足元は靴下のままだ。
「ゴメンゴメン、鍵はオレが返しておくから劉は先に帰っていいよ」 「そうアルか? じゃあ頼むケド、最終下校までには鍵戻すアル。あ、ちゃんとモップ掛けもするアルよ」 「分かってるって」 「アツシも! ちゃんと手伝えヨ!」
ビシッと指を差されて、紫原は思わず眉を寄せる。
「え〜、オレ室ちんに付き合わされただけなんだけど〜?」 「オマエ、少しは先輩を敬えアル。ウザ〜い氷室に付き合えるのも、もうあとちょっとしかねーアルよ?」 「何気にヒドイな、劉……」 「あーもー分かったし〜」 「というわけで、あとはヨロシク! 再見アル〜」
ひらひらと手を振って、劉は呆気なく去っていった。再び二人きりの空間が訪れたが、さっきまでの空気はもう、そこには無くなってしまっていた。
「片付けようか」
いくつか転がっているボールを集めようと、氷室がコートの外へと歩き出す。紫原は、その背中に向けて思わず声を掛けた。
「あと十回じゃなかったの?」 「……?」
紫原の声に、氷室の動きが止まった。自分でもらしくないことを言ったと思うが、彼もそう感じたのかゆっくりと振り向いた氷室はふと口元を緩めて笑む。しつこい先輩からやっと解放されたのにそんなことを口走ったのは恐らく劉の何気ない言葉が耳に残ったからで、こうやって氷室と過ごす時間に限りがあるということをあらためて認識したせいだ。ウザいし、暑苦しいし、面倒くさいとずっと思っているのに、終わりが来るのだと知ればそれは何だかすごく嫌だと思う。いつも一緒にいた人が突然居なくなるというのは、まだ小学生だった頃、ずっと年上の兄が一人暮らしをするために家を出たときみたいな、たぶんあんな感じなのだろう。いないことに気付いて、どうしていないのかと考えて、ああそうだったと思い出したときのあのどうしようもない寂しさ、みたいな。
「まだ付き合ってくれるのかい?」 「べつに、いーけど」
そう答えたら、いつもなら目を輝かせて駆け寄ってくるはずなのに。今日の氷室はただ、静かに笑った。
「でも、もう時間ないし、劉に怒られるから片付けようか」 「ん、そだね……」
何となく氷室がすでに乗り気じゃないのは雰囲気で分かった。その理由が、先の紫原の行為のせいなのか、劉がやって来たせいなのか、そこまでは定かではない。紫原は、部活中から壁際に立て掛けてあったモップを手にして、端からモップを掛け始めた。氷室はボールを入れたキャスター付きのボールカゴを体育用具室に向けて押して行く。 本当に、何事も無かったかのようだ。どうしてあんなことをしてしまったのかと紫原は今さらながらに己の行動を悔いた。おまじないだなんて、きっと小学生だって言わない。思い出すほどに、恥ずかしさがどんどん増していく。それと同時に、体が触れ合った感触を思い出すと、体の奥がドクン、と大きく鳴った。汗ばんで湿った氷室の綺麗な黒髪は、シャンプーみたいな良い匂いと一緒に、雨が降りそうなときの外の空気の匂いがした。何か思惑があったわけじゃない。ただ、この人がまだ見たことのない世界を見せてあげたいと思った。それだけだ。 体育用具室から出て来た氷室はもう一本立て掛けてあったモップを手にすると、それをずるずると引き摺って、紫原の傍へとやって来た。
「ちょっと室ちん? やり難いじゃん〜、あっち側からかけてよ」
二人連なってのモップ掛けは効率が悪い。反対側から来るように促したが、氷室は「ああ」と答えながらもその場に立ったまま、紫原を上目づかいでじっと見上げてくる。紫原は視線の心地悪さに眉を顰めた。
「な、なに……?」 「なぁ、アツシ」 「う、うん」 「また、やってくれるかい?」 「え〜、自主練? またも何も、いつも半強制的に―――」 「いや、そうじゃなくてさ。さっきのあれ……おまじない?」 「!?」
予期せぬ言葉に、頬が内側から熱くなる。 まさかそんなことを言われるとは思いもしなかった。思惑がなかったなんて、嘘だ。いや、この人と一緒に上の世界を見たいと思ったのは、嘘じゃない。それとは別の何か、理由の分からない、答えの出ない、どうしようもなく、もどかしい感情。思わず手を伸ばしてしまった、抑え切れない想い。
「うん、いいよ……」
だから心が、大きく跳ねた。
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