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「アツシ」 「んー、」
上半身を覆う、長い腕。 身長二〇八センチという規格外の体格を持つ紫原の両腕は、身長一八三センチと一般の男子高校生よりかなり大きいはずの氷室の体をも容易に包み込む。 おまじないは続いていた。それは主に、二人きりでの自主練習の終わりに行われることが多かった。強く抱きしめることはない。ふんわりとした抱擁の後にお互いがそれに対して何かを言うことはなく、自然と体が離れたら、あとはもう何もかもいつもどおりだった。
「帰りコンビニ寄っていい〜?」 「ああ、オレも蛍光ペン買おうと思ってたんだ」 「えーなに? 勉強でもするの?」 「しないと思ってたのか?」 「うーん、室ちんてなんか、バスケしかしてないイメージ」 「言っておくけど成績だって真ん中より上なんだからな」 「は? うっそ、マジで?」 「アツシ……実はオレのことちょっとバカだと思ってるだろ?」 「あ、うん……わりと……」 「ひどいなぁ。で? 少しは見直したかい?」 「まぁ、ちょっとだけね〜。ってかそんならオレ、成績学年で十番以内だし」 「何だよそれ、腹の立つ後輩だなぁ」
少しも腹の立っていない顔をして、氷室が笑う。 アメリカ帰りの帰国子女で、たぶん学校一モテる美形で、生徒会役員で、男子バスケ部の主将で、学年で真ん中より上の成績のひとつ年上の先輩。 お互いに個人的なことをあれこれ聞くことはなかったので、ごく自然と知った情報しか氷室について知ることはない。だから、偶然に知った新たな真実――と言うのも大袈裟な程の彼に関する事実――は、何だか妙に紫原の心をくすぐった。
十月末。全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会秋田県予選会が、県内の体育館で三日間に渡って開催された。二回戦から登場したシード校である陽泉高校は難なくトーナメントを勝ち上がり、決勝戦も大差で勝利して、秋田県の代表としてウインターカップへの出場を決めた。 ウインターカップ本番までには少しの期間があり、三年生部員は受験に備えて志望大学のオープンキャンパスに参加する者もいれば、部活後に寮の学習室で勉学に勤しむ者もいた。主将の氷室は高校男子バスケットボール界において、全国レベルで通用するシューティングガードのうちの一人だ。三年当初から複数の大学からの誘いがあったようだがその中の一大学に志望を絞り、インターハイ後に参加したセレクションを通過して、つい先日は最終選考があると言って上京するために学校と部活を休んでいた。 結果は、合格だった。ひとつ年上の先輩の進路が決まる。数か月後に彼がこの学校からいなくなるのは当たり前の事であったが、進学先が決まったことで、その事実はより現実味を増した。
十二月。クリスマスを待たずして陽泉高校の監督を始めメンバーたちは、ウインターカップに出場するために東京へとやって来た。氷室たち三年生にとっては、最後の大会。まだ立つことのない頂点への最後の挑戦だ。 陽泉高校は、緒戦から順当に大差で勝利を続けた。気が付けば、勝ち残ったチームのほとんどが、キセキの世代を有するチームになっている。大会五日目の朝食後、ホテルの研修室を借りて午後の試合を前にミーティングが行われた。監督の激励の言葉に全員が「はい!」と大きな声を上げ、チームの士気も高まる。手の届くことがなかったあの場所まで、あと、もう少し。部員たちが次々と部屋を出ていく中、チームのWエースと称され続けてきた氷室と紫原は、少し離れた席に座ったまま、なかなか立とうとはしなかった。他にもまだ数人の部員が残って話をしていたが、氷室と紫原はただ、無言のままだ。
「どーした氷室、ビビッてるアルか?」
副主将の劉が机の傍らに立ち、氷室を見下ろしながら尋ねた。
「いいや劉、それどころか、もの凄く昂っているよ」 「なら良いアル。今日の試合、オマエら二人に預けるから思いきり行けアル」
見下ろす氷室への視線を少し逸らして、劉はちらと紫原を見やる。紫原は、不意に合ったその目を逸らすことなく、睨み付けるように劉を見上げた。
「アツシのやつ、おしっこちびりそうな顔してるネ。氷室が何とかしてやるアル」 「えっ?」 「ハァァァ!? !? っざけんなし! 劉ちん何なの? 捻りつぶされたいの!?」 「お〜コワ……冗談はヨシコさんだったアル。ほらほらみんな、もう部屋に戻って、リラックスするアルよ〜」
残っている数人の部員を急くように部屋の外へと追い立てた劉は、最後に残った二人に向けて「じゃあな」と言うと背を向けて、自分も部屋を出て行った。
「っとに何なの劉ちん、ムカつくーっ!」 「なぁ、ヨシコさんって誰だ? アツシは知ってるのかい?」 「…………」
急激に、力が抜けた。それが劉の狙いだったのかどうかは不明だが、少しだけピリピリとしていた空気が、やんわりとしたものに包まれる。「はぁーあ」と気抜けした声を上げて、紫原は大きく伸びをした。返事をしなかったからか、氷室はいまだに紫原を見つめている。アメリカ帰りの帰国子女で、たぶん学校一モテる美形で、生徒会役員で、男子バスケ部の主将で、学年で真ん中より上の成績で、何もかもが完璧なようでいながら、時々とんでもなく抜けている、ひとつ年上の先輩。 可笑しいけれど、堪らなく、愛しい先輩。 ああ、なんだ。オレはこの人を―――。
「アツシってば!」
返って来ない答えに痺れを切らせたのか、氷室が少し怪訝そうな顔をして見せる。紫原はくっくっと小さく肩を震わせた。
「何が可笑しいんだよ」 「んー、べつに……ヨシコさんは今度教えてあげる」
席を立ち、紫原はゆっくりと氷室に近付いていく。手を伸ばし、座ったままの氷室の腕を掴んで高く持ち上げると、自然と体が浮かされて、氷室も椅子から立ち上がった。 長い腕が、氷室の体を覆う。「めずらしいな」と氷室が呟き、「今日は特別」と紫原が答える。ずっと氷室からの催促で行われてきたので、紫原からの抱擁は、学校の体育館で初めて触れ合ったとき以来、二度目だった。
「でも、今までずっと効いてたっしょ? おまじない」 「ああ、本当だ」
腕の中で、愛しい先輩が小さく笑う。この感情が何であるのかなんて、今はたぶん考えちゃいけない。あと二試合、このおまじないが効けばいい。この人と、頂点に辿り着ければいい。 ふんわりと抱きしめていた腕を緩めて、少しだけ体を離す。顔が見えるようにと見下ろすと、氷室も紫原をそっと見上げてきた。少し不思議そうな表情に、ゆっくりと顔を近付けてみる。驚いているのか、氷室の目が大きく見開かれたのを最後に互いの表情は見えなくなり、さらに顔を近付けてみれば、やがて、静かに唇が触れた。 やわらかな感触に、ぞくりと体が疼く。けれどそれを味わう間もなく、唇はすぐに離れた。何だか、そうしないといけないような気がした。 何を言ったらいいのか分からない。顔を見ることが出来ずに、視線は宙を彷徨う。心臓がばくばくと鳴って、下半身がむずむずするけれど、だけどこれ以上は、触れちゃいけない。 だってこれは、大切なおまじないだから。
「いつもより、効くやつだし」 「そうか」 「うん、そうだよ」
すごくおかしな事だと分かっているけれど、お互いが、それを否定することはなかった。 あと二試合が終わったら、このおまじないも要らなくなる。 それでも今は、この人と上に行きたい、と思った。
最初から最後まで、全力だった。 試合開始早々から走ったし、パスもドリブルもしたし、攻めたし、守ったし、どうしてこんなに真剣にバスケをしているんだろうと考えて、一年以上前だったら負けたくないからだと思ったんだろうけれど、一年前、このウザい先輩の涙を頬に受けたあの日から、負けたくないという思いは勝ちたいに変わった。 だから全力を出しきって、それでも、陽泉高校は負けた。天才を相手に飽くなき挑戦を挑み続けた秀才止まりの氷室が頂点に辿り着くことはなく、効きめのなかったおまじないは、二人にとってもはや必要が無くなった。
もう触れることもないであろうこの人は、果たしてオレに何かを求めていたのだろうか。 何となく、オレはこの人に利用されているんじゃないかと思うことがあった。オレだけじゃない。オレを含めたチームのメンバー全員が、彼の個人的なしがらみに巻き込まれているんじゃないかって。 バスケの楽しさを教えてやったはずの弟分に追いつかれ、追い越されて行くことを屈辱と思っていたかどうかは分からないけれど、いつか室ちんは、アイツ(火神)にだけは負けたくないとオレに言った。あの時の怒りに満ちたような、室ちんのあんな顔を見たのは初めてで、あの顔を見たときに、ああこの人は今、アイツを倒すためだけにバスケをやっているんだなとぼんやりと思った。だからこの学校に編入してきてオレたち陽泉バスケ部のレギュラーを見て、ここならできるって、ここなら願いが叶う、って思ったんじゃないかって。 仮に室ちんがそう思っていたとしてもまったくチームに実害はなかったし、むしろ大きな戦力だったし、きっと誰も気付いていなかったはずだから、オレも他人事だと思って深く考えないことにした。だけどあの日、オレを殴った試合中に流した涙でみんなにもそれを露呈して、そしてオレは、勝ちたいと思った。 それでも負けてしまったあの日以降も室ちんは相変わらず熱かったけど、いつか感じた怒の感情みたいなものはもうなくなっていた気がする。 そしてオレたちは、上を目指した。あれからずっと室ちんに天辺の世界を見せてあげたいと思っていたけど、それは何だかいつの間にか、オレの望みみたいになっていた。まるで、アイツに対抗でもするみたいに。
ねぇ、室ちんは本当に、上の世界を見たかった――?
それを尋ねることもなく、実にあっさりと、まだ雪の残る三月に氷室は陽泉高校を卒業し、寮を出て行った。「ありがとうな」とか「頑張れよ」とか、そんな、ありきたりな言葉だけを残して。 いつも一緒にいた人が突然居なくなるというのはどうしようもなく寂しいことだ、なんて。 やっぱりいなくなってみて、初めて気付いた。
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