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『流麗なプレイ』だとか『華麗なシュート』だとか、そんな文句は彼が高校生の頃からすでに書かれていたことだが、大学生になってからは、そこに『甘いマスク』や『イケメンシューター』といった、容姿を表す言葉が加わっていた。 氷室が美形であるというのは彼の顔を見たことがあれば誰でも知っていることで、紫原もその事実は出会ったときから認めている。だからといってじゃあ氷室の顔が紫原の好みかといえば、同性の彼に対してそういう見方をしたことがなかったし、今思えば顔の作りといった外見には興味がなかったように思う。ただ、学校での女子人気は凄まじいものがあったし、だから、氷室が美形であるとスポーツ雑誌にまで取り沙汰されるのも分からなくはなかった。 そんな氷室について書かれたバスケ雑誌の記事をもう暫くの間、見ていない。
紫原はこの春、陽泉高校を卒業して東京の大学に進学した。といっても元々東京出身なので、三年ぶりに出身地に帰って来たことになる。秋田の寮で食べていた食事もそれは美味しいものであったが、やはり母親の手料理に勝るものはないなと、実家に帰った今、あらためて実感しているところだ。 紫原よりも一年早く東京の大学に進学をしていた氷室とは、氷室の卒業以来連絡を取っていない。連絡を取ろうにも、紫原はそもそも氷室の連絡先を知らなかった。高校時代は同じ屋根の下で暮らしていたし、学年は違うが部活の連絡は部専用のツイッターやラインで事足りていたので、特に連絡をする必要がなかったのだ。 高校二年の秋、氷室に触れてしまったことでどうしようもなく彼が気になり出したが、いっそ卒業していなくなってしまえばそれは一時的な想いと気付くだろうと、そんな風に考えて、あえて電話番号もメールアドレスも聞くことをしなかった。氷室もまた、わざわざそれを教えてくることもなかったので、所詮自分たちの関係はその程度だと思えば早々に未練もなくなった。もっとも、高校にいた頃から氷室はといえば、同学年の劉あたりが「またアイツ人のメール無視しやがったアル」などと度々キレていたので、元々そういう手段が苦手か或いは面倒臭がるタイプだったのかもしれない。 それでも、バスケ部の先輩である氷室の動向は気にしていたし、紫原が高校三年の頃には部活内でもバスケ雑誌で大学のリーグ戦の結果などを見て、部の先輩たちの活躍を確認したりしたものだった。だから紫原も大学生になった今、同じ関東大学連盟一部リーグのチームでバスケをしていればそのうち対戦することもあるかもしれないと、期待のような、だけど少し気恥ずかしいような、そんな思いでバスケを続けているのだけれど、大学同士が対戦する以前に、氷室の名前が大学バスケ界から―――消えた。 そして次にその名前を雑誌で見たのは、氷室が所属する大学の試合の記事の中のほんの一行。
〈病気治療のため長期欠場を余儀なくされた氷室(2年)不在の穴は大きい。〉
と書かれた文面だった。
「ねぇ、このあとちょっと時間ある?」
試合には勝利したが、そんなことはどうでも良かった。紫原がそう声を掛けたのは、対戦相手大学で早くもエースの座に就いている火神だった。少年時代にアメリカで氷室からバスケを教わり、そして氷室を軽く超えていった男。氷室が紫原と共に挑み、それでも勝つことができなかった男だが、今こうして舞台が変わればあっさり勝つこともあるのだから、あの熱は一体何だったのだろうと思うことはある。
「何だよ?」
敗北した試合直後に声を掛けられて、火神は怪訝そうに紫原を見上げた。
「室ちん、どうしたの?」 「ムロ? ……ああ、タツヤのことか。って、えっ? お前、知らないのか?」 「はぁ? だから、何?」 「あ、いや……ちょっと、外で話そう」
眉を顰め、深刻な顔つきで火神はそう言った。
氷室が体の不調を訴えたのは、春先のことだった。念のためにと診察を受けた個人医院で首を傾げられ、うちでは判り兼ねるということで、大きな病院を紹介された。そこで多くの検査を受けた結果、ある病が発覚し、現在は検査を受けた病院で入院治療中だという。 どこか店に入るということもなく、紫原と火神は体育館わきで人の邪魔にならぬよう壁際に大きな体を寄せて立ち話をした。 病気が発覚するまでの経緯は氷室本人が面倒臭がって話してくれなかったので、火神が氷室の母親から聞いた話らしい。その病名は耳にしたことがあるようなないような、それを説明する火神自身も曖昧にしか理解していない様子で、確かな情報が伝わって来ない。その病は深刻なものなのか否か、そしてそれが重いのか、軽いのか。それらが分からずに少し苛立ちを覚えてきた頃、火神の口から出たのは、
「でもタツヤ、元気だぜ」
という少し明るい声だった。
「病院とか行っても平気なの? 会うの嫌がるとかない?」 「大学の先輩とかも来てたから平気だろ? あー、何なら一緒に行ってやるけど?」 「……や、それは、イイ……」
心底嫌そうに顔を歪めた紫原の表情に、「何だよ人が親切に」と火神も眉を顰めたが、元来人が良いのだろう、火神は紫原に病院の場所を丁寧に説明した。
「タツヤには一応お前にも伝えたって言っておくからな」 「あ、うん……」
会って何を話せばいいのだろう? 未練なんかないはずなのに。だけどどうしようもなく、あの人に会いたくなった。
**
ホームが近付いて電車が減速を始めた頃、車窓から病院の建物と名前が見えたので、大体の場所は把握できている。何度か利用したことのある路線ではあったが、その駅で下車をしたのは初めてだった。 近くに小学校があるようで、ランドセルを背負った下校途中の子どもたちが追いかけっこをしながら紫原を追い越して行ったが、皆一様に身長二〇八センチの紫原をすれ違いざまに振り返り、見上げて行く。けれどその視線は低すぎて、紫原のそれと合うことはなかった。 スマートフォンの地図を片手に十分ほど歩いて辿り着いたのは、隣に看護学校も併設されている比較的規模の大きな総合病院だった。火神に教えてもらった通りに一階のロビーを通り抜けエレベーターで七階まで上がり、ナースセンターで面会に来た旨を伝えてノートに氷室の部屋番号と名前を記帳する。その様を見ていた看護師が「氷室さんのお友達は本当に大きい人が多いのね」と言いながら、紫原を見上げて微笑んだ。 「右側の三つ目のお部屋ですよ」と教えてもらい、廊下を歩き始める。予告もなしに来てしまったけれど、果たしてどんな反応をされるだろうか。どんな顔をするだろうか。迷惑がられたりしないだろうか。それらをまったく考えなかったわけではないが、それでもただ、会いたかった。最初に何て言ったら良いのか分からない。分からないままに、部屋が近付いてくる。 室ちん大丈夫? オレも陽泉を卒業したよ。オレも今、東京にいるんだよ。 部屋番号の下に貼られた入院患者の名前の中に〈氷室辰也〉の文字を見付け、それを何度も見直した。入口の扉は開いていた。入ってすぐの左右には大きな鏡の付いた洗面台とトイレがあり、さらに奥を覗くと四つのベッドを其々囲うようにカーテンが引かれていて、プライベートが確保できるように仕切られている。看護師によれば氷室のベッドは、入って右の窓側だと言っていた。カーテンでどのベッドも見えないので、本人の確認のしようがない。
「室ちん……?」
恐る恐る、小さな声でその名を呼んで、カーテンを少しだけ捲ってみる。
「えっ? ……ア、アツシ!?」
心の底から驚いた顔をした氷室が、そこにいた。ひっくり返ったような声は存外に大きくて、紫原は「しーっ」と言いながら、慌てて人差し指を顔の前に立てた。
「室ちん、ここ病院でしょー?」
懐かしくて、愛しくて。ぎゅうっと胸の奥を掴まれたみたいな息苦しさを懸命に、仕舞い込む。あの頃と何も変わらない態度で、だけど少しだけ大人になった分穏やかな口調で言って、紫原は氷室を見下ろした。
「あ、いや、タイガから聞いてはいたけどまさか昨日の今日だとは思わなくて……」 「今日、練習休みだったし」 「そうなんだ」 「うん」
ベッドの背を起こして胡坐をかいている氷室は、ベッド脇のテレビから繋がっているイヤホンを耳から外すと、リモコンを操作してテレビを消した。何を見ていたのか知らないが、氷室の胡坐の上には、テレビ鑑賞には不必要と思われるバスケットボールが乗っている。
「ボール……買ったの? 新しいね」
表面の凹凸が鮮明なボールは色もまだ鮮やかで、使った様子が窺えない。マイボールくらい持っているであろう氷室にまっさらなバスケットボールはどこか不似合だ。紫原は、小さく首を傾げた。
「オレのボールは、入室禁止なんだ」
そう言って、氷室は苦笑する。
「入室禁止? ボールが?」 「外で散々使ったヤツだからさ、雑菌が繁殖するかもしれないって言われて」 「へぇー、雑菌……」 「病院って色々煩いんだよ。お見舞いの花もダメなんだって、知ってたか?」 「マジで? だってお花なんてお見舞いの定番じゃないの?」 「うん、でも花も雑菌が繁殖するからダメなんだって。仕方ないから親に持って帰ってもらっているよ」 「あー、花持ってこなくて良かった〜」 「花なんか持って来る気ないくせに」
可笑しげな氷室の声に、はたと気付く。
「あ、室ちんごめん……オレ、何も持って来なかった……」
これがお見舞いだという自覚はなく、会うことしか考えられなくなっていたのかもしれない。大学生にもなってそんな気遣いもできないだなんて、きっと高校生のあの頃と何も変わっていないと思われてしまう、と思ったのだけれど。
「いや、」
と、氷室が微笑む。
「アツシにまた会えたことが、オレはすごく嬉しい」 「……ホント?」 「本当だよ」
オレはきっともっと嬉しいよ、室ちん。 何故だか少し照れ臭くなって、二人は顔を見合わせて、苦笑した。
何となく、入院というからにはパジャマにスリッパというイメージを抱いていたがまったくそんな事はなくて、氷室の姿はTシャツ+ハーフパンツにフードつきパーカーを羽織り、足元はスリッポンのデッキシューズという、休日の部屋着というか、ちょっとコンビニ行ってくる、と言われても違和感のない格好であった。もっとも、足元に関して言えば、スリッパは脱げて危ないから紐のない靴を着用するという指定があったらしいが。 面会用のロビーで話をする間も、氷室は真新しいボールをずっと手に持っていた。少し広い空間にローテーブルが六つほどあって、それぞれに低いソファがテーブルを挟むように置かれている。氷室が高校を卒業してから一年間、紫原は氷室の後を継いで陽泉高校の主将として頑張ったこと。同級生たちと、氷室たち先輩の大学での活躍をバスケ雑誌で確認していたこと。いくつもの大学から誘いを受けて、昨夏にはすでに進学先が決まっていたことなどを以前と変わらぬのんびりとした口調で話す間にも、テーブルを挟んで向かい合う氷室の手元は、常にボールを弄っていた。
「室ちん」 「ん?」 「パス」 「えっ?」
紫原が、胸の前で両手を構える。氷室の手は一瞬だけ躊躇って、けれどその直後、条件反射的に、構えられた両手に向けてパスを送っていた。パシッ、という小気味良い音は今の氷室にとってすでに懐かしい気がして、何度も、何度も、間近のパスを繰り返し、その手でボールを受け止めて、その音を耳に聞く。
「こんな感触、久しぶりだよ」
ちょっぴりはしゃいだ風な氷室の笑顔に、さっきまでと違う明るさがプラスされたのが、目に見えて分かった。紫原の胸に、喜びと、安堵と、些かの寂しさが入り交じる。
「ねぇ、室ちん」 「なんだい?」 「また、バスケしようね」
心から願った紫原の言葉に、氷室は何だか意外そうに目を丸くして見せてから、
「ああ、そうだな」
と答えて、とても嬉しそうに笑った。
「あ、いたいた氷室さん」
唐突に、そう言って病室棟と面会ロビーを隔てる自動ドアを開けて入ってきたのは、三十歳前後と思われる男性看護師だった。
「はい?」 「点滴が一本だけあるんだけど、部屋戻ってもらっていいかな?」 「あ、はい、わかりました」 「お友達もごめんね……って、またずい分デカいなぁー、バスケ友達?」 「高校の後輩なんです、バスケ部の」 「ああ、それでか! 何だかすごく顔がイキイキしてる」 「えっ、そうですか?」 「うん、モロ分かり。邪魔しちゃって悪いけど、点滴入れたらまたこっち来ていいからさ」 「すぐ行きます、すみません」
もう一度ごめんねと言って、男性看護師はロビーから去っていった。事の次第を黙って見ていた紫原があらためて氷室を見やると、心なしか顔が赤くなっている。氷室はちらと目線を上げて来たが、紫原と目が合うとすぐにそれを逸らせ、膝に抱えたボールに顔を埋めてしまった。少しだけ赤かったはずの顔が、今は耳まで真っ赤に染まっている。
「え、なに、どしたの?」
氷室がこんなにも照れる理由が分からない。紫原は呆気に取られた面持ちで、顔を隠す氷室を見下ろした。
「いや、えっと、オレ、ホントに嬉しかったんだな」 「何が?」 「また……アツシに会えて」 「!?」
ボン、と顔面が一気に赤く染まった。顔を埋めている氷室がこちらを見ていないのは幸いだった。その言葉はきっと先輩と後輩の間に生じる感情であってそれ以上の意味などないのだろうけれど、それでも、氷室の表情や態度は紫原の胸を苦しいほどに締め付ける。心臓がばくばくと速く鳴って、息が上手く吸えなくて、こんなの、練習で馬鹿みたいに走ったときよりも、全然苦しい。
「と、とにかく部屋に戻らなきゃでしょ」
紫原は、平静を装い立ち上がった。酸欠状態に陥っていたのか頭が少しクラクラする。ゆっくりと、大きく息を吸い込みそれを吐き出せば、とりあえず呼吸は整った。 氷室もボールを抱えたまま立ち上がる。早く部屋に戻ろうと紫原が足を踏み出すと、
「アツシ」
と、呼び止められた。やっと踏み出した足を止めて、紫原は氷室を振り返る。
「何?」 「またあれ……やってくれないか」 「あれ、って?」 「覚えているかな……おまじない?」
忘れるはずがない。忘れたことなんかない。
「うん、いいよ……」
また必要になった、二人だけの儀式。 それが良いのか悪いのかは、分からないけれど。
面会ロビーを出てナースセンターの前で声を掛けると、男性看護師が「用意できてるよ」と言って出てきたので、そのまま病室まで一緒に戻った。
「見てて平気なら見ててもいいよ」
氷室の腕を消毒綿で拭いながら、看護師が紫原を見上げて笑う。そういうのは割と平気だと思っていたので平然と眺めていたのだけれど、注射よりも明らかに太い針が氷室の白い肌に刺さる瞬間、紫原は思わず顔を背けた。 そのまま二人に背を向けた際に目に映った窓から外を眺めると、七階という高さからは、周囲の景色が一望できた。さっきの小学生たちが通っているのであろう小学校が、道を挟んだひとつ先の路地の向こうに見えている。さらに遠くには、向かって左右に長く続く高架線が見えた。今ちょうど走って来た電車は紫原がここへ来るために乗って来たのと同じ型の車両で、これが車窓から見えたのと真逆の風景なのかと思うと、何だかとても、不思議な気がした。
「お待たせー、もういいよ」
背後から声を掛けられて、紫原は振り返る。「一時間くらいで落ちるから終わったら呼んで」と言って、看護師は病室を出て行った。氷室の腕から繋がれた管の存在は、まるで忘れていた、彼が病の治療中である事実を裏付ける。
「アツシ」
氷室はせっかく上がったベッドから足を下ろし、靴の踵を踏んづけて履いて、ゆっくりと立ち上がった。
「ん、」
と答え、紫原はそっと、手を伸ばす。 点滴の管に触れぬよう、紫原の長い腕が、氷室の体を覆う。ああ、この人はこんなに細かっただろうか。あの頃、細身とはいえ体中に付いていたがっしりとした筋肉が、今はもう感じられない。少し小さくなった気がするその体を、紫原はやさしく抱き締める。 これは一体、何のおまじないなのだろう。彼の病が治るように。また、バスケができるように。もちろんそれもあるのだけれど、それだけでは説明のつかない、ずっと、ずっと、燻っていた想い。
「室ちん……」 「ん?」
好き―――、というひと言は、このおまじないの効き目を失くしてしまうんじゃないだろうか。そう思うとたったひと言が、喉の奥へするりと戻って行ってしまう。
「どうした?」 「うん、何でもない」
少し体を離して氷室を見下ろせば、まるであの日と同じように、氷室も紫原を見上げてきた。 唇が、静かに触れる。ごく自然に触れ合ったやわらかな感触を、二人はあの日より少しだけ長く味わった。
バスケ部の練習が休みの月曜日には、必ず病院を訪れた。 帰り際には必ず、おまじないをした。 しっかりとカーテンを引いて、触れ合った唇から声が洩れないように必死で堪えた。 ある月曜日、氷室の母親が来ていておまじないが出来ない事があった。名残惜しげに帰った夜、知り合ってから三年経ってようやく交換したアドレスに、初めてメールが送られてきた。
〈 おまじないがないとなんだかさみしいものだな 〉
もう何度も胸の奥を掴まれるような苦しさを味わってきたけれど、それ以上の苦しみがまだあるだなんて。どうしたらいいのか分からない。今が、あの田舎の高校に通っている時じゃなくて良かった。同じ屋根の下で暮らしていたあの頃にこんな想いを抱いていたら、その後のことなど考えられずに彼を滅茶苦茶にしていたかもしれない。ここ最近ベッドに入ってから繰り返し脳裏に思い描く妄想のように、彼を犯してしまったかもしれない。
〈 オレもさみしかったよ 〉
という返信は、果たして氷室にどんな意味を持って受け止められるのだろう。それでもただ何となく、この想いは伝えたらいけないような気がした。
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