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翌週、授業が休講になったので、紫原はいつもより少し早めに病院へと向かった。病室に行くと、氷室のベッドのカーテンの向こうから、先客の声が聞こえた。女性のようだが氷室の母親の声ではない。もっと、ずっと若い声だ。女友達が見舞いに来ても何ら不思議はない。紫原は彼女が帰るのを待とうと、そのまま病室を出て面会ロビーに向かい、空いているソファに腰掛けた。一人では手持無沙汰で、意味もなくスマートフォンを手にしたが特にすることもなく、結局開いたのは、先週の氷室からのメールだった。
「あれ? バスケ部の後輩くん」
声のする方を見上げると、以前ここで出会った男性看護師が親しげに手を振っている。無視するわけにもいかず、紫原は仕方なく、軽い会釈を返した。
「部屋、行かないの?」 「誰か来てたし」 「ああ、女の子? ずい分長いな……彼女――は、いないって言ってたんだけどなぁ」 「そうなの?」 「うん、この前見た女の子と髪の長さも全然違うし、単にモテるだけか。イケメンだもんね」 「…………」
否定も肯定もできずに訝しげに看護師を見上げると、ずっと年上の彼は、ふと笑った。
「どうしてさ、僕が氷室さんの担当なのか知ってる?」 「はぁ?」 「彼が入院して来た時、ナースセンターがちょっとした騒ぎになったんだよね。超イケメンが来たーー!! って」 「あぁ……」
紫原の口から納得の声が洩れる。いまだにそうなのかと知ると、半ば呆れた風に、何度となく頷いた。
「高校ん時からずーっとそう」 「やっぱりそうか。羨ましい限りだなぁ」 「誰にでもいい顔するから、あの人」 「でも、たらしって感じじゃないし根が優しいんじゃないの?」 「誰にでも優しいのがたらしって言うんじゃないの?」 「なるほど、それは哲学だな」 「イミ分かんねーし」
本当に、意味がわからない。この看護師には何の恨みもないが、今は何だか無性にイライラして、早く仕事に戻ってくれ、と心の中で呟き、無視をするみたいに俯いた。
「あ、ほら。お帰りみたいだよ」
看護師の声に顔を上げ、彼の視線を追うと、同い年くらいの女性がエレベーターの前でボタンを押して待っていた。そこらじゅうにいて見分けがつかないほどに特徴のない、流行りの服装をした女の子だ。やがて扉の開いたエレベーターに乗り込みこちらを向いたその顔は、やっぱり流行りのメイクなのか、数分後には覚えていそうにない特徴のない女子の顔だった。
「点滴とかあるの?」
のっそりと大きな体を立ち上がらせて、紫原はこれまでとは逆に看護師を見下ろした。
「えっ?」 「このあと室ち……氷室センパイ、何かすることあるの?」 「ああ、今日は午前中に全部終わってるから、夕食まで何もないよ」 「ふーん、じゃあ、行くね」
素っ気なく言いながら、紫原は看護師の顔を見ることもなくその場を離れ、病室棟へと向かった。 ズカズカと病室に入っていっても、カーテンで仕切られているので同室の入院患者の目に留まることはない。紫原は少し乱暴に氷室のスペースのカーテンを捲った。
「あれっ、アツシ? ずい分と早いな、来るなら夕方かと思っていたよ」
いつものようにベッドの上で胡坐をかいている氷室は、少し驚いた顔を見せてから、にっこりと笑った。 ベッドサイドのキャビネットの上に、小さな籠に可愛らしく飾られたアレンジメントフラワーが置いてある。いつもはないはずのそれは、今帰った女性からのお見舞いの品なのだろう。
「花、ダメなんじゃないの?」 「うん、でも今、大学の友達が来てさ、ダメとは言えないだろう? ナースセンターで預かってもらって、明日にでも母さんに持って帰ってもらうよ」 「だったらオレが貰ってやるよ」 「アツシが?」
不思議そうに、きょとんとした目で見上げてきた氷室の腕を強引に掴んで、ベッドから引き摺り下ろす。どうしたんだよ、と慌てる氷室は裸足のままで、あたふたと靴に足を入れようと試みたが、紫原はそれすら許さずに性急に氷室を強く抱き締めた。
「どうした? 何か……あったのか?」
結局、何も伝わっていない。そしてそれを伝えることもできない。どうすることもできないもどかしさに、心と、体がバラバラに離れていくような感覚に陥った。我慢、できない。紫原は抱き締めた体に覆い被さるように、氷室を無理矢理ベッドへと押し倒した。
「うわっ! ……っな、アツシ!?」
両腕を押さえ付け、強引に唇を重ねる。氷室は何とか逃れようとしたが、紫原の力には到底叶わない。いったん離れた紫原の唇は、氷室の首筋へと埋められた。氷室が常に身に着けている火神との兄弟の証だというネックレスのリングが首筋を伝って落ちて、その存在は、紫原の苛立ちを増幅させる。堪え切れなくなって、紫原は顔を埋めた氷室の首筋に、口付けた。
「や……っめろよ!!」
予期せぬ感触に思わずビクッと肩を竦めたが、氷室はもがきながらも下半身を小さく丸めて、それから勢いよく、紫原の腹へと蹴りを入れた。
「ぅぐっ……」
蹴られた勢いで、紫原の大きな体がぐらりとよろめく。ガシャン、と音を立ててベッドが動くほどの振動に、同じ窓側のベッドのカーテンの向こうから、「え、なに?」という声が上がった。
「どうしたの? 大丈夫? ケンカ?」
そっと様子を覗き込んできたのは、向かいのベッドの患者の妻らしき女性だった。四十代と思われるその女性は、おろおろと心配そうに胸の前で手を握り合わせている。
「ナースコール押すかー?」
入院している男性の声が、カーテン越しに響いた。
「すみません! 大丈夫です!」
氷室は少し大きな声で返して、女性にも「お騒がせしました」と深く頭を下げる。くそっ、と小さな声を洩らし、紫原はキャビネットの上の花を鷲掴みにすると、大きくカーテンを捲った。
「アツシ!」
氷室の声に一瞬足を止めかけたが、紫原は振り返ることなくそのまま病室を後にした。 追い掛けてくる様子もない。当たり前だ。自分は氷室に何をした? 激しい後悔の念と同時に、会わなければ苦しむこともないという安堵にも似た気持ちが胸の中でごっちゃになって、結局は苦しい。辿り着いた駅のホームで、アルミ色をしたスチール製のゴミ箱の前を通り過ぎ様、すっかりボロボロになってしまったアレンジメントフラワーを《その他のゴミ》の投入口へと力任せに投げ込んだ。けれど、本来なら氷室の家のどこかに飾られるはずだった花の結末が何だか哀れになって、大股で数歩戻ってゴミ箱の中に手を入れて、修復しようのないほど散り散りになった花を探って拾い上げる。周囲に数人だけいた電車を待つ客がちらちらと窺って来たが、それを睨むように見下ろすと、誰もがそそくさと視線を逸らせた。
翌週、紫原は病院に行かなかった。そのまた翌週が過ぎても、紫原は氷室の見舞いに行こうとはせず、また、氷室からも何の連絡もない。 全国大会上位レベルの高校の部活の先輩と後輩。それでも所詮自分たちの関係はその程度。再会する前の段階に戻っただけだ。苦しい、と気付いたときに、もっと早くこうしていれば良かった。自分がいなくても、氷室には、弟分の火神や大学の先輩や心配してくれる女の子もたくさんいる。今までだって未練なんかあったとは思いたくないけれど、それをここで断ち切ってしまえばきっと、楽になる。授業を受けて、放課後部活に出て、週末は他大学とのバスケの試合。そんな元通りの生活を送り始めて、氷室に会わなくなって一ヵ月余りが経った頃、氷室のアドレスからメールが届いた。 会いたいとか、さみしいとか、そんな言葉が書いてあったらどうしよう。断ち切ろうとしている想いを繋ぎ止めるような言葉だったら、どうしよう。そんなことを思いながら、件名が空欄のメールを恐る恐る、開いてみる。 少しの期待感を含んだ紫原の予想は大きく外れた。期待外れの氷室の言葉は、けれどどうしようもなく紫原の胸を締め付ける。
〈 バスケがしたくて死にそうだ 〉
ああ、そうだった。 オレは、あんなにもバスケを愛している人間を他に知らない。
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