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ひと月半ぶりに病院への道のりを歩く。いつものように、下校中の小学生たちが紫原の前を、後ろを歩いている。
「ねぇ」
紫原は、少し大きな五〜六年生と思われる高学年の男の子を選んで、後ろから声をかけた。振り向いた少年は、紫原の巨体を見上げると同時にまるで動けなくなったかのように足を竦め、「は、はい」と、小さな声を返した。
「小学校にバスケのゴールってある?」
紫原は徐にその場にしゃがみ込んだ。少年が委縮していることに気付いたからだ。しゃがんだことにより高さは少年の方が少しだけ高くなり、今度は逆に、少年が紫原を見下ろした。
「あ、えっと、校庭と、体育館にある……っります」
いかにも言い換えた風な敬語に思わず苦笑する。年の数でいったら十も違わないはずなのに、一体この少年は人のことをいくつだと思っているのだろう。
「ありがとー」
すっくと立ち上がって少年を低く見下ろした紫原は、「バイバイ」と手を振って、再び歩き始めた。学校の事を聞いたのに、その小学校に、背を向けて。
〈 じゃあバスケしようよ室ちん 〉
燻る想いは高校の時みたいに胸の奥にしまうから。だからオレと、バスケをしようよ。 大きな歩幅がぐんぐんと小学生たちを追い抜いて行く。やがて堪え切れなくなって、子供たちの間を縫う様に、紫原は走り出した。
「室ちん!」 「アツシ? ……ホントに来たのか?」 「バスケするよ、室ちん」
斜めに掛けたショルダーバッグの中を探って紫原は何かを取り出す。出てきたのはスポーツ用品店のビニール製の買い物袋で、紐付きの袋の口を大きく開くと「ほら、それ入れて」と、氷室が手にしているバスケットボールを中に入れるように促した。
「ま、待てよ、何をしてるんだ?」 「バスケしないと死んじゃうんでしょ、室ちんは」 「そ、そうだけど……あ、いや、さすがにそれはないけど……え? えっ?」
言われるがままにボールを袋に入れると、次には手を引かれてベッドから下ろされる。
「靴は……しょーがないか」
デッキシューズに足を入れて履く氷室の足元を見下ろしながら呟いた紫原は、勢いよくカーテンを開けた。
「どうする……つもりだ?」 「売店行くって言って」 「……で?」 「バスケする」
紫原は、氷室の手を握った。そのまま病室を出て廊下を歩き、ナースセンターの手前でさりげなく手を離す。
「すみません、ちょっと売店行って、中庭を散歩してきます」 「はいどうぞ、いってらっしゃい。気を付けてね」
年配の看護師に笑顔で見送られて、二人は無事にエレベーターに乗り込んだ。
「なんだか、心臓がばくばく言っているよ」 「今からそんなんでバスケなんかできんのー?」 「それはまた別の問題だ」
氷室の指先が、そっと紫原の手に触れてきた。紫原はその指先を捉え、指を絡めて強く握る。一階の表示ランプが点灯して扉が開くまで、二人の手が離れることはなかった。
「行くよ」 「OK」
二人は解放されたように、病院の正面玄関を飛び出した。季節は夏の終わり。Tシャツにハーフパンツにデッキシューズという氷室の服装は、病院の敷地の外に出ても誰も入院患者だとは気付かない。
「で、どこへ行くんだい?」 「小学校。すぐそこの」 「ああ、窓から見えるな」 「体育館じゃシューズないから……でも、校庭にもバスケゴールあるって」 「調べてくれたのか?」 「え、あー、うん……」 「ありがとう」 「べつに、いいし」
それでこの人が、元気になるのなら。 下校時刻を過ぎた夕方の小学校の校庭には、ちらほらとしか児童の姿はなかった。正門から中に入り、校舎ではなく校庭の方へと歩いて行くと、校舎の中から男性が出てきて少し慌てた様子で二人の元へと駆け寄って来た。
「おーい、勝手に入っちゃダメだよ」
息も絶え絶えに走って来た中年男は教員のようで、首から紐付きのネームプレートを提げている。
「え、ダメなの? ちょこっとだけバスケしたいんだけど」
ほら、と言いながら紫原はビニール袋を開き、隙間からバスケットボールを覗かせて見せた。
「お願いします、少しの間、コートを貸してもらえませんか」 「あー、それはべつに構わないんだけど、最近は子供を狙った犯罪も多いからさ、ちゃんと手順を踏んでもらわないと使わせてあげられないんだよ。悪いけど、あっちで名前書いてもらえるかな」
仕方なく、二人は男について行く。「でっかいねぇ、バスケ選手?」と見上げられた紫原は、「まぁそんなとこ」と曖昧な声を返した。やがて辿り着いた職員玄関と思われる入口から中に入ると、まず、事務室の受付窓口に置かれたノートを開いて差し出された。名前や利用場所等を記入する欄があって、前に倣えとすでに記入されている欄を見てみたが、ほとんどがPTA役員の保護者のようで、まったく参考にならない。
〈 氏名・紫原敦 氷室辰也 利用場所・バスケコート 利用目的・バスケ 児童との関係・他人 〉
「まぁ、他に書きようがないよな」
記入された内容を見た男はくくっと笑うと、「自由に使っていいよ。でも大人用があるってよく知ってたね」と言って微笑み、二人を校庭へと送り出してくれた。
「大人用……? ってそうだ室ちん失敗した」 「えっ? 何が?」 「小学校のゴール、ミニバス用だからメッチャ低いんだった」 「でも今、大人用って」 「あっ……」
紫原が、校庭の奥を見つめている。その先には、高さの違うバスケゴールが並んで見えた。
「うわ〜、超ラッキー」 「なんだ、調べてたわけじゃないのか」 「え、や、し、調べたし!」 「そういうことにしておくよ」
氷室はふふ、と笑い、それから待ちきれないと言わんばかりに駆け出した。 校庭の端の方に設置されたバスケットゴールはキャスターの付いた可動式のもので、ミニバス用サイズ二基と、標準サイズ一基の計三基が並んでいた。当然のように、二人は標準サイズのゴール下へと歩み寄る。紫原は袋からボールを取り出して、袋の紐とショルダーバッグをミニバス用ゴールの支柱に引っ掛けた。
「アツシ」 「んー?」 「手を抜くなよ」
そう言った氷室は、不敵な笑みを浮かべた。とにかく早く、と急かすような表情は、真剣そのものだ。少し離れてしまったバスケと触れ合えればいいと思いここまで連れて来てしまったが、もっと早く気付くべきだった。あの頃から、氷室は決して軽い気持ちでバスケをすることがない。
「はぁ……」
紫原は思わず眉を顰めた。氷室が全快の状態ならもちろん本気で行くが、如何せんブランクが長い上に、彼は今現在も病の治療中の身だ。
「手を抜いたら顔面にボール投げ付けるからな」 「そんなこと言われても……」
だけど、手を抜いたらすぐにバレることを知っている。
「怪我すると思ったらすぐ止めるから。あと、苦しくなったらちゃんと言ってよ? でなきゃオレ、やらないかんね」 「う……わかった」
氷室は渋々と、紫原の言葉に頷いた。 オフェンスとディフェンスをじゃんけんで決める。一回シュートが入る毎に交代というスタイルで、二人は1on1のゲームを開始した。 経過は、予想外のものだった。高校時代に六対四程度で紫原に分があった実力差は、今では九対一か、或いはそれ以上になっているんじゃあないだろうか、まったく攻守が交代できなかったらどうしよう、そんな思いが、紫原の頭を過ぎっていた。ところがそんな考えは一分と経たずに消え去り、紫原は、あの頃と同じ気持ちで氷室と対峙する。一年生ながら大学バスケ界でもすでにその実力を如何なく発揮している紫原だが、氷室とて、一年前にはそう言われていたのだ。洗練された巧みなプレイで紫原を抜き去り、美しいフォームでシュートを決める。激しい動きに次第に体が汗ばんで、氷室はTシャツの裾を捲って顔面の汗を拭った。シュートを決める度の交代制だからいつまで経っても終わりがないし、今はこれを、終わらせたくもない。オフェンスの氷室に上手くかわされて抜かれ、「ちっ」という小さな声を洩らし、けれど紫原は振り返って、目の前の鮮やかな光景を静かに見つめる。
ああ、室ちんのバスケは、本当に綺麗だね―――。
十本目のシュートが小さなネット音を立ててゴールを潜る。と同時に氷室は両手を膝について、肩で息をし始めた。紫原は、慌てて氷室に駆け寄った。
「室ちん大丈夫!?」 「あ、ああ……大丈夫だ。でも、これで終わりにしておくよ」 「当たり前だし!」
ハハ、と笑って顔を上げた氷室は疲れてはいるものの、とても満足げな表情だった。
昇降口の前に設置された石造りの手洗い場で水を流しながら、二人で汚れたボールを洗う。外で使ったのは初めてなのに、室内でドリブルさえされたことのなかったバスケットボールは、すっかりその様相を変えていた。洗い場の掃除用なのかぽつんと置かれていた亀の子たわしを紫原が手にすると、氷室は「頼むからやさしく洗ってくれよ」と言って苦笑した。
「なぁ、アツシ」 「んー?」
もうずい分前の話だけど、と前置きをして、氷室はボールを洗う手を休め、吶々と話を始めた。
「オレは日本に帰国して陽泉に入った頃、まだ決着のついていなかったタイガとの勝負に勝つことだけを望んでバスケをしていたんだ」 「……ふぅん」
知ってたよ、そんなこと。
「だけどウインターカップでタイガに負けて、何だかすっきりしたというか、終わったんだな、って思った」 「……そう」 「最後の一年間、楽しかったよ。劉がいて、アツシがいて、優勝はできなかったけど、本当に楽しかった」 「……うん」
あの頃、結局天辺の世界は見ることができなかったけれど。
「ありがとうな……アツシ」 「何のお礼かわかんねーし」
ふわりと紫原の腕が、氷室の体を抱き締める。「え?」と驚いた風な声を上げて、氷室は紫原の胸の中で顔を上げた。
「おいアツシ、ここ外だぞ」 「誰も見てないよ」 「本当だろうな」 「うん」
本当は、遠くの鉄棒やうんていで遊んでいる子供たちがこちらを見ていることに気付いたけれど、そんなことはどうでも良かった。 もしもこのおまじないに少しでも効果があるのなら、どうかまた、室ちんとバスケができますように。
室ちんがまた、バスケができますように。
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この日を境に、紫原は病院を訪ねることができなくなっていた。大学バスケ部が所属するリーグの三大大会のうちのひとつ、《関東大学バスケットボールリーグ戦》が始まったからだ。氷室が通う大学も同じ連盟に所属しているが、当然のことながら氷室自身の出場は不可能だった。 土・日曜日の試合はもちろん唯一休みだった月曜日にも練習が入り、元々、中学時代の一時期を除き練習をサボるということをしなかった紫原は、それでも週に一回くらいと氷室の元を訪れようとしたのだが、当の氷室がそれを許してはくれなかった。
〈 室ちんもうオレの主将でもなんでもねーじゃん 〉 〈 そういう問題じゃない。バスケに対する気持ちの問題だ 〉
という様なメールの遣り取りが幾度となくあって埒が明かず、じゃあ何が氷室にとっていちばんのお見舞いになるのだろうと考えた時に、それは結局彼に会いに行く事ではなく、紫原が真剣にバスケに向き合うことだった。 大会が始まって十日が過ぎた頃、紫原は、十九歳の誕生日を迎えた。家族や友人からお祝いの言葉を贈られたがその中に氷室の言葉はなく、そういえば誕生日など教え合った事もなかったなとぼんやりと思い出した頃、スマートフォンの着信音が鳴った。
「もしもし――」 『 Congratulations on your 19th Birthday ! Wishing you many more ! 』 「……はぁ?」 『しばらくの間同い年だな、アツシ!』 「室ちん……ほんっと唐突過ぎだし」 『ちゃんと練習してるか?』 「してるよ〜。だから見舞いにも行ってないんじゃん」 『それでいい。リーグ戦、頑張れよ』
本当は、自分が頑張りたいくせに。だけど、それを絶対に言わない人だから。
「室ちんとこにも勝っちゃうかんねー」 『ハハハ、お手柔らかに頼むよ』 「室ちん」 『なんだい?』 「おまじないがなくても、平気?」
スマートフォン越しに少しの沈黙があって、それから氷室は、消え入りそうな声で答えた。
『また……頼むよ』 「うん、待ってて」 『ああ、待ってるよ、アツシ』
もっと強く、抱き締めておけば良かった―――。
紫原の誕生日の三週間後が氷室の二十歳の誕生日なので、一体どうやって祝ってやろうかという思いと、だけどその頃にはリーグ戦も大詰めを迎えているので、そんなことをしたらむしろ怒られてしまうかもしれない……という思いが混在する。 十月下旬の平日。とある夕方の事だった。
「すんません! 紫原! ……君、いるっスか!?」
放課後の練習中、大学のアリーナに突然姿を現し大声を上げたのは、他大学のバスケ部エース、火神大我だった。周囲が俄かにざわめき始める。紫原は手にしたボールを放り出し、もの凄い勢いで、火神の元へと駆け付けた。
「な、なにお前!? 何なの一体、何の用!?」 「すぐに帰る支度しろよ。病院行くぞ」 「!?」
火神と自分との共通点。それを考えた時、嫌でも察してしまった。
「先輩に言ってくるから、ちょっと待ってて」
紫原はくるりと背を向けた。
「室ちん、いつからそんなに悪くなってたの?」 「もうずっと悪いっちゃ悪いんだけど、ひどくなったのはここ一〜二ヶ月か?」 「え、でもオレ……先月室ちんとバスケしたよ?」 「ハァ? 先月? できるわけねーだろ、歩くだけでも大変だったのに」 「…………」
じゃあ、あの日オレとバスケをしたあれは、誰? 電車を乗り継いで、氷室の待つ病院へと向かう。どんなに急いで走りたくても、車内ではそれは不可能だ。紫原も火神も、駅で電車が停車する度に苛立ちを募らせた。
「なんでわざわざ知らせに来たわけ?」 「お前の電話とかメール、知らねーし」 「いや、そうじゃなくって」
火神は紫原を睨むように見上げ、髪をガシガシと掻き毟ってから、小さなため息を吐いた。
「タツヤがバスケしたかったのは、お前なんだよ……」
悔しいけど、と付け足して、火神はそっぽを向くように窓の外を眺め、それきり何も言わなくなった。 やがて病院の最寄駅で電車を降りた二人は、全力で走り出した。
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