5 奇妙に長く感じる瞬間





劉が第1アリーナに戻ると、入口近くの壁沿いに腰を下ろしている氷室と目が合った。不機嫌だったら面倒くさいなと思っていたが、いつもの場所に座っているあたり、そういうわけではなさそうだ。劉も氷室の隣りに腰を下ろし、バッグの中から弁当を取り出した。

昼食を取る場所については、特に決まりはない。舞台上がなぜだか人気であったが部員数が多いのでスペースには限りがあり、そこは当然のように最上級生が陣取っていた。少々面倒だが2階の客席に上がって食べる者もいれば、エントランスにいくつか置かれた長椅子で食べる者もいる。劉と氷室も先輩が引退してすぐの頃は念願の舞台上で食べていたのだが、主将と副主将という役割柄、監督の荒木やマネージャーや他の部の顧問から声がかかることも多い。その度にいちいち飛び降りるのが面倒くさくなって、いつの頃からか、入口の扉のすぐそばに座って食べるようになっていた。壁際は下級生が多いので後輩たちにとっては迷惑であるのかもしれないが、そこは意外にも全体が見渡せて、部員の様子がわかる場所であることに二人は最近気付いた。

今日の弁当の主食は大きなおにぎり3個。おかずにはから揚げと、ちくわと野菜のごった煮と、コールスローサラダ少々と、そして厚焼き玉子だ。

「今日は和風だな」

そう言って劉を見上げた氷室の表情は、いつもどおりだった。

「から揚げも和風アルか?基準がわからんアル」

「煮物が入ってるから?・・かな」

「・・ナルホド」

煮物に入っている大豆を器用に箸でつまんで、体格からすると米粒のようなそれをぱくりと食べる劉の姿は、氷室の目に少し可愛いらしく映った。その横顔をぼんやりと眺めていると、視線に気付いた劉が見下ろしてきた。

「腕、平気アルか?」

「腕?」

「さっき、強く掴み過ぎた」

「あ?ああ、全然、平気だよ」

「悪かった・・」

だから全然平気だって、と、氷室は手首をぶらぶらと揺らして見せる。

なら良かった、と言いながら、劉はホッと息を吐いた。

「午後練どうしようか・・DFのポジション取りが読めるようにオレたちなりに指導しろってさ」

「とりあえず・・ワタシとアツシは別れた方がいいアルか?」

「釣り合い取れないからその方がいいな、それと―――」

「アツシ!!!!」

「??!!!」

突然の劉の大声に心底驚いて、氷室はビクッと肩を竦めた。
荒木に渡された紙を見ていた顔を上げて劉の視線の先を見ると、そこには紫原が立っていた。

「何してるアル?」

「え・・ちょっとだけ、水欲しいかな、って・・」

紫原が手を掛けようとしていたのは、舞台の上に置かれたジャグタンクのコックだった。
ジャグの中には冷えた水が入っていて、練習中は誰でも飲むことができる。スポーツドリンク等他の飲み物が飲みたい者は、各自スクイズボトルに入れて持参している。
タンクの横にはトレイが置かれ、その上にはいくつものプラコップが伏せて置いてある。誰が使っても良い共用のコップもあるが、自分専用に名前やしるしが底に書かれたものもある。紫原は、底にマジックで”む”と書かれた自分専用のコップを手にしていた。

「昼メシの飲み物は各自用意する約束アル」

「だって朝時間なかったんだしー」

「だったら水道行って汲んでこい。部活用はダメアル」

「え〜〜、どっちもおんなじ水じゃん〜」

「それはマネがわざわざ浄水器から汲んで来てくれた水アル。おんなじ水言うなら水道水でもイイダロ」

「・・・・・・」

紫原は暫く無言で劉と氷室の座る方を見下ろしていたが、やがて「劉ちんホント細かいよね」と零し、ため息を吐いた。

「ねぇ室・・・キャプテーン、お水もらってもいいですかぁ?」

「・・・えっ?」

紫原は諦めずに、懐柔策に出た。氷室に対して普段は絶対口にしない呼称で呼び、絶対に使わない敬語を使ってみる。紫原に”キャプテン”と呼ばれた氷室は咄嗟には誰が呼ばれたのかわからず、それが自分のことであると気付くとなぜだか顔を赤くして、少し離れた場所に立つ紫原を見上げた。

「騙されるなヨ、氷室」

「あ、うん、でもさ・・」

「オマエほんっとアツシに甘いアルな。アツシだけ特別扱いは主将として他の部員に示しがつかないアルよ」

「・・・・ダ、ダメだよアツシ!決まりだからね!」

躊躇いを断ち切るように氷室が語尾を強めて叫ぶと、紫原は「ちぇ〜」と言って大きく肩を落とした。「劉ちんのケチ」と言い残し、仕方なく水道へ移動しようとすると、

「紫原〜」

と、上から声が聞こえた。

それは紫原の同級生で、2階から身を乗り出している。

「オレのお茶やるからコップ持って来いよ」

「サンキュ〜」

上に向かって声を返し、紫原はコップを持ったまま舞台前から去って行った。




「なんでワタシがケチか?ダメ言ったのは氷室アル」

不満げな声でそう言って、劉はおにぎりを頬張りながら、バッグからアルミボトルを取り出した。ボトルに入っているのは麦茶だ。翌日が弁当の日は、寮で麦茶ポットに水出しの麦茶を作って冷蔵庫に入れておき、翌朝ボトルに入れ替えて持参する。男子高校生とは思えない節約ぶりだが、親元を離れている寮生にとって節約は重要だ。劉はボトルの蓋を開け、窄まった飲み口からお茶を飲み、おにぎりを胃に流し込んだ。

「で、さっきの続きだけど・・」

氷室は床に置いた紙を見下ろして話を再開したが、口の中にまだ食べ物が残っているのか、言いかけたまま口をモゴモゴと動かしている。少し待ってみたが、氷室はなかなか口を開かない。

「・・ホレ」

劉は閉めたばかりのアルミボトルの蓋を開けて、氷室に差し出した。氷室は少し驚いた様子で劉の顔を見つめている。氷室は紫原にとことん甘いが、自分も大概だな、と劉は思う。

「寝坊して用意する時間なかったんダロ?」

「あ、いや・・・」

「いいから飲め。話が進まないアル」

「・・Thanks

No problem

何かを期待したわけじゃない。見返りを求めないただの善意でそれを渡したのだ・・けれど。

つい今しがた自分が口を付けた小さな飲み口に、氷室が唇を寄せる。意思に関係なく、劉の胸はざわめき始めた。その様子に気付くはずもない氷室は口を付け、ボトルを傾けて麦茶を飲んだ。麦茶が喉を通る度に喉仏が上下し、唇が小さく動く。ほんの数秒の出来事が奇妙に長く感じられ、動く氷室の唇が、劉の瞼の奥に残る。

その唇に触れたい―――。

自分の意思じゃない。
脳が勝手に、そう思った。



「あー、助かった」

喉に突っかえそうだったんだ、と言って、氷室は劉にボトルを返した。返されたボトルの飲み口を見つめ、氷室が口を付けていたのはこっち側だった、などと考えている自分はいよいよ頭がおかしいんじゃないだろうか。心臓の鼓動が勝手に早くなる。ドクンドクンと大きく脈打つ音が耳の奥に響く。唇じゃなくてもいい。氷室に触りたい。息が、苦しい。



「それでゴメン、今度こそ続きだけど・・」

氷室が劉を見上げてきた。

「あ、ああ」

この感情には覚えがある。

恋、という感情だ。

劉はボトルの飲み口をもう一度見つめたが、やがて、口を付けることなくその蓋を閉めた。





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