| 7 宵待ち月も待てません
「あれ?どこ行くんだい、劉」 寮の廊下で、練習着のジャージにベンチコートを羽織った劉の後ろ姿を見かけた氷室は思わず声をかけた。 「マ●キヨ」 顔を見る前に、声で氷室だとわかった。 春休み中の部活は授業後の部活よりも早く終わるので、夕食や風呂も早く済ませることができる。門限までの自由時間に近くに買い物に行くことも可能だ。もっとも、近くと言ってもここは秋田の田舎だ。コンビニは学校の近くに1軒だけあるが、劉が行こうとしているドラッグストアはこの辺りでいちばん栄えた場所にあり、それはここから3Kmほど離れている。 「ちょっと待ってオレも行く。洗顔切れたんだ」 「いつものヤツでいいなら買ってくるアルよ?」 「う・・ん、でもいいや、オレも行く」 「じゃ、待ってるアル」 「悪いな、すぐ着替えてくる」 程なくして、上下スウェット姿だった氷室が部屋から出てきた。 「なぜ似たようなカッコしてくるか・・・」 暫く口を開けたまま氷室を見つめた劉が、呆れたような口調で言った。 「いちばん手っ取り早いだろ?」 「まぁ、そうアルな」 一年365日のうち、バスケに関わらない日がいったい何日あるだろう。 「このカッコならいっそ走って行こうか」 冗談まじりにそう言った氷室は寮の玄関の小窓前に置いてあるノートを広げ、外出者の名前と外出理由と現在の時刻を記入した。 「・・は?ちょい待て、氷室」 ノートに書かれた文字を見るなり、劉は眉を顰めた。 「なんでワタシの名前、英語アルか?」 「え?っと・・・」 ”氷室辰也”と書かれたあまり上手いとは言えない文字の下には、”Liu Wei”という流れるように書き慣れたアルファベットが書かれていた。 「い、いいじゃないか、誰だかわかれば」 「もしかして・・書けないアルか?」 「そ、そんなことないよ!ただ・・ちょっと自信ないかも、って・・・」 「どーりでメンバー表とかも書かないはずアル」 「あれはマネの仕事だろ?」 「あ〜〜、Shockアル〜、ひらがなの方がまだましアル〜」 劉はいかにもわざとらしく拗ねた振りをして、口を尖らせてみせる。 「何だよもう・・ゴメン、ちゃんと書くから・・っ」 少しやけ気味に、氷室は”Liu Wei”と書いた名前の上に線を引き、横に漢字で”劉偉”という名前を書いた・・つもりだった。 その文字はどうにも形が取れずにガタガタで、偏や旁の体を成してはいなかった。それでも劉は、普段日本人がほとんど使わないであろう漢字で表記する自分の名前を帰国子女の氷室が正解ではないながらも記憶してくれていることが素直に嬉しかった。 「すまない、ちょっとイジワルだったアル」 劉の大きな手が、氷室の頭をポン、と叩く。 「今度ちゃんと教えてくれよ」 氷室は劉を見上げ、少し照れたように笑った。
春休みとはいえ春まだ遠い秋田の夜は、寒い。 「そんなに寒いならついて来んなアル」 「えー、ひどいな。オレべつに寒いの嫌いじゃないよ」 「だったらいちいち言うな」 「でもほら劉、今日はすごく月が綺麗だ」 「・・・・・」 何が”でも”なのか。氷室の日本語はときどき中国人の劉よりも不可解だ。そんな氷室はどこか嬉しそうに空を見上げている。劉も同様に見上げれば、夜空にはまあるい月と満天の星が輝いていた。 「満月アルか」 「まだちょっとだけ欠けてないか?」 「・・・そうか?」 劉は空を見上げ、じっと目を凝らした。確かにコンパスをあの月の真ん中に刺して円を描いたとしたら、本当にほんの少しだけ隙間ができるであろう満ち欠けが確認できた。 「じゃあ昨日とか一昨日が満月だったアルか?」 「明日か明後日が満月かもしれないよ?」 「うーん・・興味ないからよくわからんアル」 「明日また見てみようよ。そしたらわかるんじゃないか?」 「・・・そうアルな」
劉はもう一度、夜空を見上げた。
*宵待ち月→待宵月→翌日の十五夜(満月)の月を待つ(ことすら楽しむ)宵、の意。 *同人でよく描かれる夏●漱石の「月が綺麗ですね」ってやつをこの二人が知ってるとは思えない。 *よって、何も起こらない。笑 |